「二次避難は温泉旅館でお受けします」

飯坂温泉の旅館経営者が無償での受け入れ提案

福島駅から私鉄「福島交通」に乗って20分ぐらい。福島の盆地を北に向かって走り、終着駅の飯坂温泉に着くと急に山地になる。
夏はツバメが飛び交い、冬は時折の雪景色の美しい駅。芭蕉の銅像。眼の前の摺上川(すりかみがわ)は突然、深い谷になる。谷を挟んで旅館が建ち並ぶ。橋を渡って川沿いに登れば松島屋旅舘がある。

 

松島屋旅舘女将 高橋美奈子さん2011年3月11日の地震から半年、まったく休みなく働いた女将さんに会った。話しているうちに「ああ、温泉行きたあい」と笑い冗談と本音を混ぜるひと。高橋美奈子さんは19年前に嫁いでからこの道一本。地震の日の未明から浜通りの自主避難者を大広間に受け入れた。従業員の家からもかき集めた石油ストーブを使って煮炊きするなど、ありとあらゆる工夫をした。 旅館の配管が破損した。ほとんどの部屋が水浸しで使えない。大広間なら大きな余震の時みんな一緒に避難できる。そして、この時春休みの合宿で旅館から自動車教習所に通っていた学生さん達は送迎用のバスで安心して休めるようにしていた。この日に限っては不安の持ち方、立場の違う「お客様」同士を分けたほうが、安心して休んでもらえるだろうとの判断であった。

福島市も大量の市外からの避難者を市の施設を開放して受け入れていた。避難者が増えて行く中、さまざまなことを思い、考えていたという。福島市内の公共施設を使い切っていた一次避難所で、インフルエンザが流行る。風疹が出る。妊婦がいる。乳飲み子がいる。老人がいる。障害を持つ人がいる。飯坂温泉の経営者達は届き始めた情報に胸を痛めていた。

 

高橋さんは飯坂温泉旅館協同組合の企画実行委員会委員長を務めていた。そして、議論の末に組合の予算をできる限り利用して避難者につくすことになった。賛同する旅館10軒とともに、避難所からの二次避難を受け入れることを決意。福島市に協力を求める。といっても、行政の任務とされている避難者の受け入れを、旅館の経営者達が身銭を切って行うという話なので、役所の文化からすれば「そんなことを民間の方に、しかも無料でお願いしていいものか」という躊躇はあったはずだ。

 

福島市の将来の担い手を育てようと企画された「ふくしま街づくり夢仕掛け人塾」。この施策に参加していた高橋さんと市役所の職員は同じ釜のメシを食った仲間。一緒に学び、真剣に活動したことがあるので、深い信頼関係があった。

 

常日頃から、付き合いのある福島市観光課の職員の方々も、昼夜を問わずさまざまなアドバイスをくれた。「福島市役所の英断がなければ出来なかった」と女将さんはいう。
市役所の人に信用されたことが嬉しかった。避難民の中から、伝染病で隔離が必要な人、妊婦、小さな子どもなど、命を守る為の情報がやりとりされる。女将の旅館は一部屋ずつ直しながら、まったく部屋を使えない旅館は大浴場だけでも、料理の炊き出しだけでもと、できることから力を出し合う。

 

「私達はお客様に救われたんです」という女将。
子どもの笑顔、何時間も体験を話す人、感謝をする人、温かい味噌汁だけで涙を流す人。従業員も女将も避難されている人たちの存在が自分を強くしたという。
しばらくたって県が宿泊費の補助を始めてくれた。

 

飯坂温泉は、地元福島市の人々や近隣の人々が治療に使って来た湯だ。「切り傷にはこの源泉」、「打ち身にはこの源泉」、「皮膚病にはこの源泉」と、いくつもの源泉を使い分けて来たという。「湯治のつもりで、体調を整えてほしい」という想いが伝わっていった。避難者が去った現在、警備や復興関係者に利用されている。実際の放射能と風評の残る中、温泉地の経営がどうなるかは分からない。県が「安全宣言」を出した後にも米から放射能が検出されてしまったため、飯坂温泉の線量は低くても、埋まりかけた年末年始のお客様がほぼキャンセルをされたという。

 

でも女将はこう言った。
「こんなにひどい目にあったんだから、福島を世界一の街にする。福島県を世界一幸せな土地にしたい」

 

(取材日:2011年12月9日 ネットアクション事務局 杉山幹夫)

 

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