日常の情報公開が、被害を最小限に留めるために役に立つ
茨城県最北端の都市、北茨城市。隣接地は東北三関の一つ、勿来の関があるいわき市である。北茨城市の海岸線には茨城百景の一つである“磯原海岸”があり、景勝である“二ツ島”にぶつかる波の音は迫力がある。市内の港で獲れる魚介類は豊富で、鮟鱇は同市の魚として親しまれてきた。
北茨城市にも3.11の大震災の爪痕は残されていた。岡倉天心ゆかりの六角堂が流失し、大津港は多くの漁業関連施設が被害を受けた。約5万人弱の全市民の内、10%にあたる5,100人が避難所へ避難した。
北茨城市役所総務課長の鵜沼聡さんにお話を聞いた。避難は防災計画に則って行ったが、避難所に何人避難しているのか、把握するのに時間がかかった。当日の夕方6時から7時頃になって、20ヶ所の避難所で5千人を超えていると分かったが、5千人という避難はかつて無かった。人数分の食料備蓄が無くて困った。急きょ市役所に炊き出し所を設置し、市役所職員が震災当日の夜から炊き出しを行った。また、野口雨情の関係で姉妹都市協定を結んでいる長野県中野市から、翌日には救援物資が届いたという。
北茨城市消防本部消防長の澤田清さんはいう。「避難していて4m超の津波が本当に来るのか、という感じ。仮に津波が来れば、相当な被災者が出るだろうという想定のもとに体制を取っていた。その後、津波の到来が確実であることを県が防災航空隊に確認したので、災害が起こった後の備えもしながら待っているという状況だった。その日の夜に、つくば市からDMATが到着し、その後、名古屋、静岡、千葉等からも到着したので助かった」
市の対応は迅速だった。雇用促進住宅を使うことを市長の判断で国へ掛け合い、避難者へ開放する等、命を最優先した対応をトップダウンで迅速に行える環境があった。総務部長の柏豊嬉さんは「情報はオープンだった」という。市の職員からの情報だけではなく、議員とともに各地域の情報を集め、それらに対応するため、毎日夕方には本部会議を開き、翌日には実行に移すというスピード感があった。
「各地域の消防団の情報が大きかった」と澤田さん。北茨城市の消防団は、地域での活躍の場、責任の場として、比較的若い世代の方々が参加している。「消防団」としての意識が高く、地域の情報を把握していた。普段から地域の人と人とを結びつけ、ヨコとタテのつながりが持っていたので、自分たちのテリトリー以外の復旧作業も率先して行っていた。
非常事態に陥った時ほど、マニュアルに則った活動だけでは解決できないものがある。情報を収集し、それを有効に活用できるような組織づくりと、誰一人傍観者とならずに率先して動き回る認識が非常に重要だ。
(取材日:2012年3月16日 ネットアクション事務局 多田眞浩)