支援に頼り過ぎないように

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被災者の自立心喪失に強い危機感

新日鐵釜石製鐵所から市役所方面に向かう大渡橋を渡ると、町の雰囲気はガラリと変わる。未だ撤去されずに残る瓦礫、無残な形になって積み上げられている自動車、奇跡的に残っているように見える建物も、1階部分が津波にさらわれ、内部がめちゃくちゃな状態。恐ろしい津波の惨状をまざまざと見せつけられた。そんな中、釜石市市民生活部防災課長の山田守さんと、係長の猪又博史さんにお会いした。

 

山田さんは地元の野球チームの監督や部長を歴任したスポーツマン。腰周りは57歳とは思えないほどガッチリしている。一方、猪又さんは、物静かに淡々と仕事をさばく仕事人の印象。お二人とも、一見寡黙な感じだが、お話を聞くと内に秘めた信念の強さを感じる。

 

「救援物資やボランティアにより様々な支援を頂いた。これは大変助かった。しかし、被災者が生活支援に頼り過ぎになるのが心配」と、山田さん。被災者の大変な状況を理解するとともに、長い目でみた被災者の自立心喪失に強い危機感を抱く。

 

「庁舎は昭和29年築の古い建物なので、地震で壊れるかと思った。地震直後の14:46頃は電気が通じたが、15:00頃には停電になり、通信手段も使えなくなった。10m以上の津波が発生し、庁舎入口が瓦礫で塞がれ外に出られなかった。家族の安否を確認するのに4、5日かかった。」と当時を振り返る猪又さん。若い体力のある職員たちが、市庁舎裏の急峻な山道を避難所まで、けが人やご遺体を運んだ。また、海水で一杯となった1階の生協に腰まで浸かりながら降り、食べられそうな菓子類などを調達して避難してきた被災者に配布した。

 

お二人とも、現在の釜石市に一番必要なのは産業の再生だと考えている。まず、最終処分まで約3年はかかるといわれている約82万トンの瓦礫を撤去し、漁業や水産加工業などの地場産業を再生して、市民が働き、住むことができるまちづくりを進めなければならない。すでに隣の大槌町では、水産加工業数社と椎茸工場が立ち上がっているという。

しかし産業の再生には時間がかかる。養殖業は、流されたホタテやワカメを一から育てなければならない。このような状態が続けば、日々の糧を求めて釜石市を離れていく人が増えてしまうかもしれない。

 

「国や自治体の復興支援制度をうまく利用できる企業はいいが、必ずしもそのような会社ばかりではない。市民の中に自立意識を芽生えさせ、自らの力で街を再生していかないと復興は継続しない」と山田さん。まずは市民の自立意識の再生から。市職員の熱い想いが市民に伝わり、一丸となって復興に取り組む日々が必ず来ると信じている。

 

(取材日:2011年12月7日 ネットアクション事務局 多田眞浩)

 

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This article( by ネットアクション事務局 )is licensed under a Creative Commons 表示 2.1 日本 License.

 

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