周辺自治体と連携して災害対策を進めた岩手県沿岸広域振興局

釜石市内にある県合同庁舎付近は、釜石港から約3kmしか内陸に入っていないにも関わらず山間地域。これが三陸海岸の特徴だ。市内を東西に抜ける狭い谷間を、国道とJR釜石線が分け合っている。この県合同庁舎で、岩手県沿岸広域振興局経営企画部長の熊谷正和さんにお会いした。熊谷さんは、担当する各市町村の状況や、支援をやり抜いた遠野市のことなど多くのことを把握していた。

 

熊谷さんは地震発生時、宮古市にある岩手県立大学宮古短期大学部を訪問していた。停電のなか、情報はカーナビのテレビが頼りだった。同じ県庁内でも、盛岡市の本庁舎と沿岸部の職員のあいだで情報のやり取りが十分できず、状況把握や対応に温度差があったという。

また、岩手県庁には「岩手県」の文字が入った防災服がなかった。職員が一生懸命働いても、それが県職員だとは認識されなかった。

 

発災直後は、沿岸部から情報を出すことも、受け取ることもできなかった。県合同庁舎は自家発電を備えていたので、近隣からの避難者を受け入れ、被災した釜石市役所や警察の活動拠点にもなっていたが、インターネットも当初は繋がらず、衛星電話の回線すら混み合って繋がりにくい状態だった。

 

「NHKも頑張ったけど、岩手の放送局(IBC)が頑張ってくれてね。随分災害関係の放送をしてくれた。ただ、ラジオが入らない地域も多かった」。

NTTなどのインフラの回復は早かった。製造業の経営者たちが、インターネットを利用するために県合同庁舎を訪れることもしばしばあった。被災の数日後には、全国の業界団体などと連絡をとり、中古の工作機械が入手できたという。

電波の入りやすいFMのミニ放送局を県合同庁舎内に設け、情報の収集・発信に努めた。地元の新聞社が情報を集めて新聞を作り、避難所で無料で配布した。情報が集まりだしてから、県庁や市役所が機能し始めたという。

 

真っ先に行ったのは、道路の啓開作業だ。啓開とは、道路上の瓦礫を撤去することで、建設業者も被災していたが、県の遠野土木センターに応援を要請して、国管理、市町村管理の道路の区別なく幹線道路の啓開を進めた。特に市町村道は、救助活動とあわせて自衛隊の助けを借りた。「自衛隊の助けがなければ、こんなに早く道路啓開はできなかった」。道路が復旧すると、今度は全国からボランティアが集まってきた。地元スーパーからのおにぎりの差し入れや、布団屋からの布団の提供など、地元企業によるボランティアの受入支援活動や、後方支援拠点である遠野市の支援もありがたかったと熊谷さんは当時を振り返る。

 

地元や近隣地域が大変な状況に陥った時、協力し合えるためには「普段からのご近所付き合い」が不可欠だという。古くから互いの地区を人が行き交い、経済的、文化的に交流があった遠野市、大槌町、釜石市などの地域。自治体間の人事交流を通じて横軸連携を強化してきた秋田県横手市。日ごろの交流が、互助の精神を涵養していった。

 

平地部が壊滅した大槌町。被災以前は20ほどあった水産加工所のうち、4つの事業所が操業を再開した。「ここに立地する企業、事業を再開する企業を歓迎したい。そのために出来ることをしたい」と熊谷さんは語る。復興は長い道のりである。岩手県沿岸広域振興局の役割は、今後ますます重要になる。

 

(取材日:2011年12月7日 ネットアクション事務局 多田眞浩)