1878年(明治11年)イザベラ・バードは蝦夷に向けて北日本を徒歩,あるいは駄馬を使い旅をする.

 お供は伊藤という18歳の青年である.彼は通訳と召使を兼ねている.彼は抜け目なくイザベラ・バードの旅をサポートし,英語の能力も日々上達する.しかし,イザベラが何かを購入するとき,すきあらば上前をはねようとする狡猾さをもっていた.

 もっとも,伊藤は金だけを盗んで逃亡するようなことはなく,逆に盗まれる恐れのある場合には,イザベラの所持金を預かることもあった.外見は愚鈍に見えて抜け目なく行動する伊藤に,日本人の典型をイザベラは見たかもしれない.

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 文明に浴することの出来るのは,日光までで,そこから先は何が起こるかわからないと知人たちには忠告されていた.しかし,新潟や秋田など,人口の多い都市部では,外国人も少しずつ入ってきていることもあり,居心地はそれほど悪く感じていない.

 いっぽうで,人口が数百人ていどの小さな村などでは,知人の忠告通り野蛮人のような日本人を見ることになる.男女とわず下半身しか着衣していないこともしばしばである.そのおかげか,多くの日本人の肌は虫に刺されてひどい状態であり,子供たちの肌もガサガサに荒れていることを観察している.

 もっとも都市部では,そのような記述はない.

 また,旧武士(二本差)は服装や態度,そして顔つきまで他の日本人と異なると述べている.二本差は一般に面長で鼻筋は通っているとある.顔つきはともかく,服装や言動が,農村部などの他の日本人と旧武士ではまったく異なっていたのは,士農工商の階級制が終わって10年ほどの当時としては,十分ありえたであろう.

 2ヶ月ほどで,関東平野から青森まで到着している.もっとも,日光,新潟そして秋田(久保田)では,観光をしたり体調をととのえたりと,10日あまりほど滞在したりしている.

 それ以外の村などでは,外国人を見るのがはじめてという人々に取り囲まれ,まるで見世物になったり,旅館に泊まっても,障子にのぞきの目玉が8個も10個もぎょろぎょろするような旅である.都市部では精神的な休養もかなり必要としたであろう.ちなみに,当時いなかの宿の畳にはノミなどの虫も多く居たようで,日本人の多くも虫だらけだと記述されている.彼女自身は賢明にも,携帯用の折りたたみ寝台を持参している.

 農村部では医療と呼べそうなものがほとんどなく,死にそうな老人や子供を多く見ている.見かねて所持していた薬を与えて,病気が良くなると,住民がイザベラの宿に押し寄せるという事態も生じている.

都市部は,自分の故郷のエジンバラも真似をしたほうがいいと言うほど清潔感があったり,文明化が進んでいるにもかかわらず,農村部の状態との落差は,現代のわれわれからみても,想像以上のものであった.

(CC BY-SA 2016. 1. 12 Yasushi Honda)

 

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