仏坂 について知っていることをぜひ教えてください

中央町方面と母恋を結ぶ峠は,通称仏坂とよばれています.

なぜ仏坂と呼ばれているのかというと,明治5年に函館から森,森から室蘭まで海路,室蘭から苫小牧付近を通って札幌へぬける札幌本道を大急ぎで開削した際に,この峠でも多くの死者を出したということに由来します.

仏坂の上にある招魂碑

このように書くと,札幌を北海道の中心にするためには,しごく当然のことのように聞こえますが,実際にはまだ室蘭には街らしい街はできておらず,宿も食事をとるのも困難を伴っていた時代です.そのような状況で命がけの難工事をどのような人々が行ったのでしょうか?

賃金を高くして全国から人を集めたのかもしれません.しかし大急ぎで近代化を進めていた明治政府に当時そんな余裕があったのか.また北海道の寒冷地で重労働を行うためには,それなりに気候に順応できる地方の人々である必要があったと想像できます.

アイヌの人々を強制的に用いたのでしょうか?アイヌの人々は文明化はされていなかったかもしれませんが,北海道の豊かな自然の恵みの中で,生活にこまって重労働するというよりは,北海道の気候に慣れない和人を助けていたといわれます.そのようなアイヌの人々を重労働につかせたでしょうか?

仏坂は現在新道となり車の交通量も多い道となっています.その山頂付近に招魂碑が建っており,開削の経緯などが刻まれています.長い風雪によって読み取るのが困難な文字も少し混じっており,完全には解読できませんでしたが,冒頭に会津藩士が海を渡ってこの地の開削に従事したと読めます.

戊辰戦争で賊軍になってしまった会津藩士は,北海道に渡ってゲリラ的な抵抗戦を継続するのではなく,こんなところで国の礎となっていたのでした.

(2016. 4.16 Yasushi Honda)

関連年表

明治2:戊辰戦争

明治3:斗南藩へ

明治5−6:札幌本道建設

明治7:屯田兵制度

明治15:廃藩置県


仏坂招魂碑の碑文

※◯は判読できなかった文字です。

<正面>
招魂碑

<左側面> -建立年と施主
明治四十三年五月二一日
橋本組下請負人
施主 新川茂十郎

<背面> 移設について
施主 大宮源次郎
國道の災害防除工事を施工するのでこの碑をここまでうつし併せて五十年忌の追善供養を行ひました
昭和三十二年十一月三十日 施主 日東土木株式會社

 

右側面全体

 

<右側面> -碑文本文
明治五年會津藩士當地ニ渡海シ國道工事並ニ開拓ニ従事其際夥多ノ死亡者ヲ出シタルモ草創ノ場合迚仮埋葬トナシ而来斯
佛坂トヘ一之地名トナリシト云フ今尚樹木雑草ノ小陰ニ朽チタル塔婆杯ノ散在スルヲ見ル而来星霜ノ閲スル事四旬明治四十
年ノ秋株式會社日本製鋼所ノ設立アルヤ建設地切取其他ノ工事全部ヲ仙臺市定禅寺通櫓町橋本組ニ於テ引受ケ書一夜ノ別ナク刻
苦経営彼ノ土木事業専ラニ難工事トシテ喧傳セラレタル喇叭山ノ開墾ヲシテ未ダ嘗テ例ナキ大爆發ヲ案出執行シ部下一同又身命
ヲ賭シ竣工ニ奏シタリ然シ◯之レカ為メ従業者ヲシテ犠牲ニ供シタル事莫大今ニシテ之ヲ追憶スレハ實ニ哀惜ニ不堪依テ茲ニ
前後両者之英霊ヲ合祀シ紀念トシテ招魂碑を建立スルモノ也

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

碑文抄訳

明治5年、会津藩士がこの地に入植し、国道工事や開拓に従事した。その際、夥しく多くの死亡者を出したが、草創の頃だったため仮埋葬となり、以来ここは仏坂と呼ばれ一つの地名となったと言う。
今なお樹木や雑草の陰に朽ちた卒塔婆が散在している。以来40年が過ぎた明治40年の秋、株式会社日本製鋼所が設立されると、建設地の整地その他の工事全てを仙台市定禅寺通櫓町にある
橋本組が請け負ったが経営が苦しく、土木事業で難工事として知られるラッパ山(現在の護国寺のある丘)を切り崩すために、前例のない大爆発を計画実行し、部下一同命懸けで竣工させた。
しかし、この工事のために従業員に莫大な犠牲を出したことは、今にして思えば実に哀惜に堪えない。よってここに、前後両者の英霊を合祀し紀念として招魂碑を建立するものである。

 

本記事を読んで以来、気になっていた仏坂招魂碑を確認しに行きました。
スーパーアークス室蘭中央店(旧長崎屋室蘭中央店)と旧労働会館の間の道(山手通)をまっすぐに上がり、斜面に沿って進む山道を10-15分ほど進んだところに石碑はありました。
その間、一度も人とも車ともすれ違わず。民家もまばらで非常に寂しい場所でした。
石碑の隣には、崩れかけた屋根の下にお地蔵様が祀られ、石碑の周囲2メートルほどは刈られてましたが、その周りは一面の笹薮になっていました。

時代とともに忘れられようとしていることを強く感じさせられる風景でした。

碑文を一通り読んで、ちょっと混乱。日付が2つ刻まれているのです。明治43年と昭和32年。
よく見たら右側面の碑文は漢字カタカナ混じりの文面。明らかに戦前のものです。一方で背面の碑文は漢字ひらがな混じりの文面。戦後を思わせます。
そしてようやく理解しました。背面は、この石碑を移設した時に、後から掘られたものだと。

昭和32年の移設時、建立から50年忌の追善法要をしたと刻まれています。
来年2017年になると、この時からさらに60年が経ったことになります。

明治5年の会津藩士入植。(国道工事と開拓事業により死傷者多数)
35年後の明治40年から日本製鋼所の工事。(大爆発採掘方式により死傷者多数)
竣工の1年後、明治43年に石碑建立。
ぞれから50年後の昭和32年に災害防除工事のため移設。50年忌追善供養。
そして来年には、それから60年。

大きな時の流れに一瞬くらっとしましたが。僕達の今の暮らしは、こうした時間の流れの延長線にあるんだな、と改めて感じます。
そう考えた時に、この過去から繋がる線を、ここで途切れさせたら、きっと僕たちの未来も無くなるのではないか・・・。そんな風にも感じました。

忘れてはいけない。次の世代に伝えなければならない。なんとなくそんな気がしました。

[2016/5/7 山田 正樹]

 

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