金成マツ婆さん について知っていることをぜひ教えてください

知里真志保がその著書の中で、紹介する金成マツ婆さん、知里幸恵、真志保姉弟の伯母。母親のナミの姉のイメカヌの和名である。金成(かんなり)姓は叔父のカンナリキからとったとされる。イメカヌは、登別のオカシペッ(現:千歳町)に生まれ、ナミとともに函館谷地頭でジョン・パチェラーが開いた「将来アイヌの布教師たるべき人材を養成するために、函館の谷地頭に愛隣学校という土人学校」にかよい、イギリス国教会の流れをくむキリスト教的な教育を受ける。ナミとともに平取でキリスト教の布教活動を行う。母のモナシノウクは、脚の不自由なイメカヌの身の回りの世話をするため同行した。イメカヌは「戦前、戦後にかけて独力で一万数千頁のユーカラをローマ字で書き残した」。1875年11月10日生 、1961年4月6日没

参考

おば金成マツのこと」知里真志保

市立函館博物館研究紀要

「日本プロテスタント海外宣教史」乗松雅休から現在まで 中村敏

 


知里真志保が北海道新聞1961年(昭和36年)4月9日朝刊に掲載したものが青空文庫にある。真志保はマスコミや観光客の心無い行動への辛辣な批判の一方で、そのおかげで叔母の幸せがあったことも書いている。アイヌが置かれた立場や、脚を失い、出歩けないことが、逆に伝承者としての伯母を育てたこと。出歩けない時間が母子の語らいの時間となり、ユカラの覚える時間になったこと、養女を早く亡くしたために、彼女の代わりにアイヌの神謡を書き残す決意をしたことなど、皮肉にも、何も、悪いことが何かを生み出す姿をつかんで自分の納得させるように記している。また、イメカヌが、日常的にローマ字で何かを記述することが全く苦ではななかったことなど、家族ならではの情景が記されている。
 

青空文庫より

おば金成マツのこと

知里真志保

 

 おば金成マツが老衰でなくなった。たまたま僕は数日前からがん固なしゃっくりで病床に伏しているのだが、朝から報道関係諸氏の来訪で身動きもできないありさまである。無形文化財とか、紫綬褒章とかいうものの偉力を身をもって体験させられた。これらのものが本人の生きている間に、せめてこの半分ぐらいでも偉力と功徳を発揮してくれたらもっといいのにと思った。


 金成マツはユーカラの筆録者としては絶好の条件を備えていた。まず郷里でも第一等のすぐれた家系に生まれ、近親にはユーカラの伝承者として有名な人々が雲のごとくいたし、ことにその母のモナシノウクばあさんは、胆振地方の津々浦々に名をはせた有名な伝承者であった。
 第二に、金成マツは当時の婦人としては第一級の教養を身につけていた。有名なジョン・バチェラー博士が、将来アイヌの布教師たるべき人材を養成するために、函館の谷地頭に愛隣学校という土人学校を設け、全道各地から優秀な児童を集めて教育した。おば(金成マツ)もその妹のナミ(私の母)もそこの卒業者であった。


 この学校では日本人小学校で教える一般課程のほかに英語の教育も施した。当時流行のナショナルリーダーが四巻そろって私の家にあったのを、中学時代の私が興味深く手に取って読んだのを記憶している。私の幼少時代とおばと母の間にかわされる手紙やはがきはすべてローマ字であった。部落の日本人たちはそれを英語の手紙と呼んで尊敬していたようである。後年おばがユーカラをローマ字で筆録する場合も、おそらくローマ字で物を書くということはなんの苦にもならなかったであろう。


 第三に、おばは少女時代に不慮のケガで両足を折ってしまい、それ以来生まれもつかぬいざりになってしまった。このことはおばをして結婚をあきらめさせ、一生をキリスト伝道者として送ろうと決心させ、ひいては後年ユーカラの筆録に余生をささげるようなめぐりあわせに導いた動機となった。おば個人にとって痛ましい出来事だったが、アイヌ研究にとっては皮肉にもそれが幸いになったのである。


 おばの布教は平取、近文と大正11年まで続いたが、どこの布教地でも、部落の小路をまわって部落全体の生活にとけこみ、そこで神の教えを説くということは肉体上の欠陥から不可能であった。それでいつも部落の中にある小さな教会に引きこもって、日曜には日曜学校を開き、女子供に説教するのがせいいっぱいであった。しかし、ふだんの日でも、夕方になれば部落の人々がよく遊びに来た。


 部落で新聞をとっていたのはわずか数軒にすぎなかったので、おばのところへ新聞のニュースや小説を聞きに来たり、またおばが不自由な身なので、祖母がいつも身の回りの世話をしていたのであるが、その祖母からユーカラを聞いて楽しんだりしたのである。こうしておばはその間にユーカラに関する知識をたくわえていったらしい。


 大正11年、女学校を終えたばかりの養女ユキエが、アイヌ文学の紹介を一生の仕事と決めて上京したのであるが、こと志とちがい、一冊のアイヌ神謡を残したきりで宿痾の心臓病で19歳のつぼみの生涯を終えると、まもなく祖母もあとを追うように死に、その養女の七年忌に上京したおばが、いまさら養女のやりかけた仕事の重大な意義に気づき、自分の余生をアイヌ文学の粋であるユーカラの筆録にささげようと決心して、戦前、戦後にかけて独力で一万数千頁のユーカラをローマ字で書き残したのは周知のとおりである。


 その功績によって昭和31年無形文化財保持者に指定され、紫綬褒章を授けられた。おばとしては望外の光栄に感泣したことであろう。ただ、そのころからおばに老耄の気がみられ、われわれがユーカラ採集に行っても支離滅裂なところがみられてきた。
 ところがいったん無形文化財に指定されるや、全国の心なき観光客がワンサと押しかけてきて、いよいよおばの記憶をこんらんしたようである。僕なぞはもうそのころから登別へ出かけてもおばにあいさつに顔を出すだけで、学問的な採集は全く断念してしまった。すなわち、そのころではおばのユーカラ伝承者としての価値も使命も全く終わっていたのである。おばの側近の者はただなんの用もありげもない旅行者のわがままな要求と対応に右往左往するのみで、無造作に文化財なぞに指定され、それらの人々のいわば玩具になってやや得意のようにも見えるおばの態度にハラハラしたものである。


 ただ頭の弱くなっていたおば自身はおそらく幸福であったかもしれない。不幸は不幸と自覚しえる人間にのみ不幸なのだから。おばは話ずきだし客ずきだし。功成り名とげて天寿をまっとうして大往生をとげたのだから。いまはそれを虚心たんかいによろこんであげたい。

 

 

〈『北海道新聞』昭和36年4月9日朝刊〉

 


金成マツとユーカラ

知里真志保

 

 

 叔母とは2年近く会ってなかった。なにしろ高齢なので老衰が著しく、私がテープレコーダーなどを持参してユーカラの採録に行っても、朗唱に重複が多くて資料になりがたい状態であった。彼女の脳裏に刻みこまれていたユーカラのすべてが記録は留められているわけではなく、今となっては永久に不可能ということになったわけだが、私は私なりに、学問上の損失は少ないと思っている。ぼう大な量のユーカラ伝承者としての金成マツは、その頭脳の老化の故に、既に数年も前から、そう、無形文化財表彰以前に、学問的な重要性を失っていたのである。

 金成マツが伝承してくれたユーカラの量は、決して少ないものではない。実際に朗唱する場合には、抑揚のある節まわしを伴うせいもあるが、かなりの長時間を必要とするものであり、通常夕食を終えてからイロリを囲んで始まり、何回かの休憩をとりながら翌日の昼を越すまで続けられることでも、その分量の想像がつくだろうが、それを正確に伝えることができたのは何故であったろうか。  金成マツは幸か不幸か幼少から足が悪く生活の大半を屋内で過ごさねばならなかった。その家庭は裕福で、血統も良かった。当時(明治10年)伝道のため来道したバチェラー博士の開いた愛隣学校が全道から俊秀を選んだ時、まっ先に入学できたことでもわかるように利発な女性でもあった。祖先に対する誇り、ひとつことに沈潜し易い生活環境、それに当時としては、かなり高度な教育がユーカラ伝承者としての彼女を形成したものと私は考える。

 もっとも単なる伝承者としては彼女の母、私には祖母にあたる金成モナシノウクのほうが上であったように思われるのだが、今日の研究には、何といってもマツの与えた影響は大きい。そうして、その記録に基づいた分類・翻訳・研究が進められているが、先年始められた集大成の出版がようやく第二巻の刊行にコギつけた有様にも現われているように、決して容易ではないのである。現在金田一博士を中心にして進んでいる研究には私も参画しているが、金成マツの伝承は偉大であっても、生活の場の狭さの故に限定された語彙の貧困さによって『注』の不正確な点がひとつの隘路となっていることを痛感する。つまり、彼女は世間で言われているようなユーカラ学者あるいは研究家ではなく、あくまでも貴重な伝承者と考えるべきなのである。

 肉親を失う悲しみは深い。たとえ天寿をまっとうしたものであっても、かわりのない人情でもあろう。叔母の冥福を祈るとともに、集大成の完成をその霊前に捧げうる日の近いことをも祈り期したいものと思う。(談)

 

 

〈『北海タイムス』昭和36年4月8日朝刊〉