「あの世の入り口」ーいわゆる地獄穴についてー について知っていることをぜひ教えてください
 

「あの世の入口」 ―いわゆる地獄穴について―

知里真志保(1909年〜1961年)文学博士、アイヌ語学、登別出身

 

2016/07/09撮影  西本玲子

 

(2)室蘭のアフンルパロ

 室蘭市内、港(みなと)町から小橋内(おはしない)に行く途中の海岸にあるアフンパロ、あるいはアフンルパロとよばれる洞窟がある。また、外海の方にも電信浜からマスイチの浜へ出て行く途中の海岸にそういう名の洞窟がある。この二つの洞窟はおたがいに通じており(永田方正『北海道蝦夷語地名解』第四版、192ページ)、下は地獄に達していると云って、アイヌははなはだ恐れきらっている。(『室蘭市史』上巻、31ページ)
 二つの洞窟がおたがいに通じていて下は地獄に達しているというのは、あの世へ行く道が途中で二つに分れていて、一方はそのままあの世へ通じ、他方は外部 にある他の洞窟に通じているということで、後出のいくつかの伝説が示すように、北方へ行くとそれはふつうの考え方である。なお、ここで地獄といっているの は、もちろん下方の国(ポクナシル)、すなわちあの世のことである。従ってそれを地獄という語で云い表すのは、前にも云ったように、まちがいである。また、これらの洞窟を、アイヌがはなはだ恐れきらって いるという記録は、はなはだ重要である。そういう感情は、もとへさかのぼれば、そこは神聖な場所で、近づくのがタブーだったことを示すものであろう。なお、ここにも次のような伝説がからんでいる。
 ある首領(ニシパ)が妻に死なれて悲観(イモキリ)して、寝てばかりいたが、ある日ふと気が変って磯へ出てみると、女が手さげ袋(サラニプ)を持ってこんぶを取っている。近よってみると死んだ妻だったので、捕えようとするとアフンルパロに逃げこんでしまった。それを追ってあの世へ行ったけれども、さとされて帰って来た。しかし一週間ほどして死んでしまったという。(幌別出身、故知里イシュレ※(小書き片仮名ク、1-6-78)翁談)
 ここに入った人の話はきいたことはないが、犬を入れてやるとぜったいに出てこないということである。

(元室蘭(もとむろらん)、室村(むろむら)三次郎翁談、――更科源蔵『北海道伝説集、アイヌ篇』19ページ)



一 あの世の入口に関する酋長談

 アイヌの散文物語の一種、酋長談(ウエベケル)とよばれるものの中によくアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)が出てくる。これは前に説明したように、あの世へ行く道の入口ということで、酋長談の中では海岸の洞窟か、山奥の河岸の洞窟とされている。そしてこの種の物語は、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)を通って生きながらあの世へ行って来た人の帰来談として語られるのがふつうである。われわれはそれを読むことによって、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)や、あの世のありさまや、人間の死などについてアイヌがどのような観念をもっていたかをつかむことができる。
 最初に胆振国(いぶりこく)幌別郡(ほろべつぐん)幌別村に伝承されていたものを紹介しよう。これは同地生れの金成マツ婆さんが伝えていたものである。


以上、青空文庫より引用しました。
原典を読まれたい方は
知里真志保作品 あの世の入口 ――いわゆる地獄穴について――(新字新仮名、作品ID:53886)を直接ご覧ください。

この洞窟とアイヌの伝承は、三浦清宏(1930〜)「海洞」アフンルパロの物語、曽根富美子(1958~)「親なるもの 断崖」など後世の文学者の重要な素材となっています。

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事業に成功して、絵鞆小学校建設に尽力したアイヌ、オビシテクルが生まれたのは、アヘン戦争の始まった1840年前後。室蘭の海運王、栗林五朔が生まれたのが1866年。1892年に五朔が室蘭に渡り、1906年、オビシテクルに言語学者の金田一京助を紹介します。京助の誕生は廃藩置県のあった1882年。そして、1909年に知里真志保が誕生し、のちに京助によってアイヌ語学者として見出され、曖昧だったアイヌ語地名の解明などの業績を残します。