事業に成功し、絵鞆小学校を作ったアイヌ
押杵帯九郎/アイヌ名:オビシテクル(1840頃~1913年)元室蘭生まれ。
アイヌ語の研究家で、金田一京助がアイヌ語研究を始める一助となった。1906(明治39)年、海運業などを営む栗林五朔が押杵と金田一を引き合わせている。 この時、オビシテクル66歳、五朔40歳。
海岸町から札幌本道の工事のころに絵鞆に移転させられ、絵鞆と室蘭港の市街地との間の道路の整備などにつとめていた、絵鞆の有力者とされている。
1892(明治25)年、常盤小学校分校として認可を受け、自宅を仮校舎に充てた、絵鞆小学校の開設の中心人物。それ以前にも私塾を開き、この地区に多く暮らしていたとされるアイヌに教育の場を提供していた。
参考http://ainu-center.hm.pref.hokkaido.lg.jp/11_01_001.htm
明治政府は、北海道の植民地化を押し進める傍ら、アイヌ民族の言語や風習や伝統文化を捨てさせ、日本人に同化させるための教育を行いました。明治5年の 学制が出された頃より、東京の開拓使仮学校、強制移住させた樺太アイヌの教育所、宣教師の開いた教会の学校が作られましたが、1899年の「旧土人学校保護法」に基づき国費によってアイヌ学校が全道に25校設立されました。アイヌ児童だけを分離して、義務教育、忠君愛国を教育の柱とした皇民化教育が行われ ました。(『アイヌ民族の歴史と文化~教育指導の手引』:P.75)
http://city.hokkai.or.jp/~ayaedu/kyudozin/kyudozin.html
絵鞆小学校のできた1892(明治25)年から数年間の間は、旧土人学校保護法ができていなかったため、アイヌと開拓民は同じ教室で机を並べていたことになります。一方で、明治の末期、栗林五朔がオビシテクルを金田一に紹介するエピソードをみると、明治を通じで、この室蘭においてはアイヌが差別されていなかった可能性があります。
札幌のあるフチはこのこの「旧土人学校」が廃止されたあとの小学校を経験するなかで「土人学校のほうがまだよかった。アイヌばっかりだからいじめられることもなかったし、楽しく過ごせた。でもアイヌ語を話してはいけないというのはおかしいと思った」と語っています。