伊能忠敬の蝦夷地調査が,ちょうど1800年のことです.
それから遡ることわずか4年の1796年にはイギリスのブロートンが,プロビデンス号で白鳥湾の測量を行なっています.薪と水の補給をしたかったというのが直接的な動機でしたが,蝦夷・樺太あたりから,ベーリング海峡周辺までの北太平洋は16世紀以来の「テラ・インコグニタ(未知の土地)」として,世界中の探究心旺盛なひとびとの注目の的だったようです.
「北方図の歴史」船越昭生著(講談社)の213ページには,
「同年秋,英機黎(インキリス)船一隻[乗員すべて110名]が室蘭湾虻田に碇をおろし,薪水を得て,さらに絵鞆の白鳥入江に停泊した.その船は測錘をおろし,水深を測量していた.」
とあります.
当時すでにロシア人は東シベリアに到達していたので,ロシア船が北太平洋を航海するのは想像しやすいですが,イギリス船が地球の裏側まで探検に来るというのもその好奇心の旺盛さに驚かされます.しかも霧や寒さ,場合によっては氷が行く手を阻む北の海です.
この当時に先立つ大航海時代,スペインとポルトガルはアフリカ喜望峰をまわってアジアに達する航路を切り開いていました.すこし後発のオランダとイギリスは,より短い距離でアジアに達することができる,北の航路を目指したという背景もありそうです.メルカトル図法の世界地図を見慣れてしまうと,ピンとこないかもしれませんが,地球は3次元的な球体なのです.ユーラシア大陸の西の端からその東側のアジアに抜けるには,北アメリカのさらに北側の北極圏を通ってベーリング海峡から南下する北西航路の方が,アフリカの南を回りこむよりもずっと近道なのです.
オランダはすでに長崎に日本との交易の拠点を設けていましたから,イギリスは蝦夷地に日本との交易の活路を見出そうとしたのかもしれません.
ブロートンは翌年1797年にも絵鞆を訪れます.「北方図の歴史」273ページには
「また1797年(寛政九),絵鞆でブロートンから海図を与えられたことがあった.ことがらの性質上記録には残っていないが,この時もえぞ地の地図がもとめられたものと推測される.」
とあります.江戸幕府は長崎でのオランダを通したもの以外の海外との情報交換をいっさい禁止していたので,お互いが調べた地図のやりとりですら,ままならない時代でした.
このときにブロートンたちと実際に言葉をかわしたのは,松前藩の加藤肩吾という医師だったそうです.1797年からさらに4年まえの1793年にロシアのラックスマンたちから大黒屋光太夫を引き取る交渉にあたったのもこの加藤医師でした.加藤医師はロシア語が話せたので,ロシア人たちと会話ができたのでした.
イギリス船のブロートンたちと地図を交換するときは英語だったのでは?とおもいますが,ロシア人の船員がプロビデンス号に乗っていたそうです.乗員110名といっても,多国籍探検船だったということです.
ロシア語の分からない船長の下,加藤肩吾とロシア人船員が,松前武士の目を気にしながら,どんな風にロシア語で交渉をして地図を交換したのでしょうか.
(2016. 4.10 Yasushi Honda)
加藤肩吾の松前地図(北海道大学,北方関係資料総合目録,超高精細画像あり)
http://www2.lib.hokudai.ac.jp/cgi-bin/hoppodb/record.cgi?id=0D000900000000000
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