平取から函館への帰り道,イザベラは幌別から旧室蘭へ向けて進む.
室蘭の近辺で,街道からそれて,ほとんど人の通らぬ小道を通った記述がある.(「日本奥地紀行」466ページ)
彼女の通り道を想像して地図にしてみる.
山道にはいってから「古ぼけた道を八マイル(約12キロ)進んだ」とある.
いまの天神町-->八丁平-->港北-->本輪西-->陣屋という経路を沢を登ったり下ったりしながら進んだと想像される.
旧室蘭の湾に着いたら南西の方角に駒ケ岳の赤い山肌が見えたとあるので,陣屋から崎守町あたりに到着したのではないだろうか?
少し長くなるが,関連する部分を引用してみる.
幌別は古くさびれた感じの漁業地である.18軒の日本人の家と47軒のアイヌの家がある.ここのアイヌの家は白老のものよりもずっと大きく,その非常に急な屋根は美しく建造されている.ひどい天気の日で,深い霧が山の姿を隠し,海上に重くたちこめていた.しかし誰も雨が降るとは思わなかったので,私は人力車を室蘭(モロラン)送り返し,馬を手に入れた |
明治初期(1878年)のころ,室蘭の隣の幌別でも日本人の家よりもアイヌの家のほうが倍以上多かったことがわかる.
天気の悪い日には人力車をつかい,天気が良ければ馬に乗って旅を続けていたこともうかがえる.
ひとしきり馬についての見解がつづいたあと,段落も変えずに小道にそれた話にはいる.せめて段落をかえてくれればもっと読みやすいのだが...
やがて私たちは,街道を離れて,土砂降りの中を人の通らぬ小道にそれて行った.とてもひどい沼地を通り,だいぶ増水して激しく流れる川を渡り,山の中に入った.そこで私たちは,古ぼけた道を八マイル進んだ |
山田説2号 (CC BY-SA OpenStreetMap)
山田説
知利別にかつて休憩所というか、駅逓のような場所があったと聞きますので、恐らくそこから天神町の沢を登り、八丁平を越えて、港北町の奥の方から2丁目の、今だと柏木町から下ってくる道をたどり、本輪西八幡神社の前を通って伊能橋に抜け、そこから幌萌に上がって陣屋に下ったんじゃないでしょうか。伊能忠敬が辿ったのと逆のルートですよね。当時海沿いが谷地か崖だったので、山を越えていくしかなかったように聞きます。ざっくりと地図に起こして見たのでご覧ください。かなりの部分が想像ですが・・・。
海沿いの青い線はもともとの海岸線がこのあたりかな? という線です。
馬頭観音は、八丁平から港北町に下る旧道(豆腐屋の坂)の途中にありますが、街道沿いにあることの多い石碑ですので、ここが古くからある街道であることを示しているのでは?と思ってます。
これだけの山坂を越えなければならないとしたら、本室蘭から絵鞆に船で渡ってしまった方が楽と思うのも頷けます。。
倉地説
天神町奥の貯水池脇を通って左斜面を八丁平・大谷高近くへ上る道があります(隣のおじいさんが教えてくれました。まだ行ったことはありませんが、距離はすぐのようです)そこから環状線に上がって陣屋へ下りたのでは。
中学校のころ室蘭岳のいまのダンパラあたりで解散すると中島町へ下りる者、本輪西へ下りる者がおり、ピックニックではチマイベツ浄水場や喜門岱小学校あたりに遊びにいきましたので、もしかしたら当時もそのあたりのルートがあったのでは。。
本田説
イザベラさんはかなり強気な方のようなので,獣道というか道なき道をヤブコギしてまっすぐ陣屋をめざした可能性はないでしょうか?
室蘭市史 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1042054
昭和5年の室蘭の地図 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/images/001085109.html
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