新日鐵港北社宅 について知っていることをぜひ教えてください

港北町1丁目・2丁目・3丁目にはかつて、新日鐵の社宅街が形成されてました。
社宅街には会社直営の配給所(今のホームストア港北店の前身)や理容所、浴場等があり、たくさんの人が住んでいました。

 

 

 

 

 

 

 


社宅のくらし

港北社宅はほとんどが1棟の建物に2戸入るタイプの2軒長屋で、コイカクシ川の両岸に山際までびっしりと立ち並んでいました。当時、冬は燃料として会社からコークスが支給されていたため、各戸に専用のコークス小屋があり、同潤社が道路に置いて行ったコークスをそれぞれコークス小屋に納めていたそうです。

社宅街のあちこちには、湧き水を利用した水場が設けられ、近隣住民で共同で利用してました。

当時の社宅には風呂は無かったため、川沿いに会社直営の浴場がありました。
電力も会社から電力線が引かれていて各戸に供給されていたそうです。

 


社宅のおわり

昭和56年に、集中豪雨で上流で土石流が発生した影響でコイカクシ川が埋まり、社宅街を濁流が襲いました。この水害で中流域の社宅は床下浸水、下流域の社宅は床上浸水や全半壊の大きな被害が出たそうです。この影響かわかりませんが、昭和58年に港北社宅は全戸取り壊しが決定。港北社宅は終わりを迎えました。

それ以降10年近く、社宅跡地は荒れるに任されてましたが、90年代前後から少しずつ宅地造成が進み、2000年代後半にはほぼ、社宅跡地の全域が新興住宅街に生まれ変わりました。

現在の旧新日鐵港北社宅の様子(谷底の住宅街ほぼ全域が旧新日鐵港北社宅)港北町3丁目の一角に残されている社宅跡地。
石垣が当時を物語るが、道路は自然に還っている。

港北町3丁目の一角に残されている社宅跡地。
左手の斜面の石垣は健在だがここも道路は自然に還っている。
右の写真の奥に見えている湧き水の跡。
今でもきれいな水が湧き続けていた。

 

 


港北社宅の思い出を教えて下さい

僕は昭和55年に港北社宅で生まれました。それから58年の取り壊しまで、3年に渡って社宅に住んでましたが、物心付く前だったためあまり記憶にありません。
でも、古い木造社宅の佇まい、2軒続きだった長屋造りの建物、家の前の道路、川の様子、浴場の記憶など、断片的な記憶はあり、ときどき懐かしく思い出します。

[2015/01/02 山田 正樹]

 

 

Front Pageへ戻る