「栗林五朔翁追悼錄」

「栗林五朔翁追悼錄」1940年(昭和15年)より

こ の追悼錄の冒頭で「翁の遺せる諸事業」(pp.8)で五朔は祖先に習って呉服商をするつもりで、1892年(明治25年)2月に室蘭に移住したことが記されている。 そして、室蘭は呉服を商う豊かさに達していないと判断して、酒、味噌、醤油などの商いを始めている。室蘭本線の開通で、石炭の積み出しと、生活物資の輸送 道内への輸送の基地に室蘭港が定まった年だった。6月、日本郵船株式会社の室蘭の代理店を務めることになった。五朔は商いを支配人たちに任せて、自分は北海道内外をできるだけ旅して見聞を広めたとされている。

1885年(明治18年)年、郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併により、日本郵船会社を設立している。

五朔はこの仕事を発展させ、蓄積した資本で1907年(明治40年)には英国アームストロング会社、ビッカース会社と共同して、株式会社日本製鋼所創立し、同社の輸送を引き受ける。また、1910年(明治43年)には苫小牧に建設される王子製紙の資材の全てを運んでいる。

 

「一アイヌの死によせた美しい心情」

英国人のバチラー牧師が故人の友人の一人として追悼文を寄せている。

「一アイヌの死によせた美しい心情」ジョン・バチラー(pp.245-247)より。

バ チラーは五朔について、いつもニコニコしていて、非常に親切な人だったと語っている。彼の持っている牛からたくさん牛乳をもらったことなども紹介している。

「私が室蘭方面に参った時に、栗林さんの使ってゐらっしゃる一人のアイヌが死んだのである」。

このことを五朔につたえたところ本人が直ぐにやって来て、五 圓(10万円を超える金額)を差しだしたことが書かれていた。金額と速さと本人が飛んできたことだけを五朔の行動を記している。布教活動をしながらアイヌの子を育てた彼からみて、当時、五朔の使用人なのか取引先なのか、いずれにせよ、アイヌに対して、対等の以上の扱いをしている五朔の態度に感動しただろうことが伝わってくる。

牧師は、国内の様子を見聞したなかで、室蘭周辺のアイヌは「内地の貧民ほど苦しんではいなかった」と記している。

また、「アイヌを成る丈け差別をなくしたい。教育もできるやうにしたい」とバチラー牧師と五朔の共通の望みと思われる文言を書いた上で、「アイヌは昔から日本人の厄介に な たのではなく、寧ろ日本の手助けになっと思はれる」、「今日アイヌは滅びたのでなく、日本の地に生きて居るのである。最高の學府に學ぶものもあるほどであ る。日本人に嫁したものもある。日本人を娶ったものも居る。官職に就いたものもゐる」と当時のアイヌの様子を語り、五朔によるところが多いと伝えている。

「栗林さんが今日尚生きて居られたならば、もっともっと北海道の開拓、アイヌの開發に盡していただけるであったであらうと、しみじみと思うのである」

1913年(大正2年)オビシテクルが亡くなっている。もしや、ジョンが書いたアイヌとはオビシテクルのことではないか。言語学者の金田一京助とオビシテクルを自宅に招いて紹介したのも五朔であるという。情報をお持ちの方があったら、ご提供願いたい。

1927年(昭和2年)五朔が亡くなっている。