海洞 第二部「栄枯盛衰」 について知っていることをぜひ教えてください
「邯鄲の夢」
ひとの人生も、うっかりしていると、枕を借りて一眠りしている間に過ぎ去ってしまうほどの短かさかもしれない。(Yasushi Honda)
書き始めると、「南原徳蔵」(母の従兄の南條徳男)が面白い人物だったことが、彼の残した回想録からわかり、だんだんと彼が前編(この本では第二部)の中心人物になっていった。政治家だった彼のおかげで、大正、昭和にわたる日本の姿を書くのも容易になった。頭が二つあるような小説になったかもしれないが、後編の清隆の生き方と対照させて、時代の変化をはっきりと示すことが出来たのは、儲けものだったのではないかと思う。(海洞あとがきより引用)
室蘭から東京へと自分を形成する閉ざした過去をたどる
大浦清隆(三浦清宏氏)が亡き母の実家である室蘭の武林写真館の従兄武林孝男を訪ねたことで、母の形見となった観音像がアイヌ語で「アフンルパロ」と言われる「死んだ妻を追って夫が洞窟に飛び込み、彼の世に行くという」別名「蓬莱門」に祀られていることを知る。忘れようと避けてきた母の記憶、不仲であった父と母との関係。頑なまでに閉ざそうとしていた自分を形成する過去をたどる為に、母の従兄である東京の南原徳蔵の元へと足を運ぶ。政治家南原の妻みちの口から語られる回想は、大浦に嫁いだ母の一生を左右した武林写真館の繁栄と衰退、当時の時世に翻弄された人々の人生。南原徳蔵も絡む政治の闘争、戦争、2.26事件。清隆を取り巻く人間たちが激しい渦に呑みこまれていった時代をも語られるものであった。
自分の力で変えられる思考の価値
「栄枯盛衰」というタイトルを見た時は「時代」という文字がすぐさま頭に浮かんだが、世の中が繁栄と衰退の繰り返しなのだというだけではなく、一人の人間の人生にもそのまま当てはまるのだということを考えずにはいられなくなった。誰の人生にも必ず波はある。時代の背景、人と人との繋がりに大きく左右されるものだ。他人同士ばかりではなく、生まれた家によっても大きな影響を受ける。ただし、何よりもそれぞれが持つ思考によってその波は大きさを変えるのだ。「栄枯盛衰」は誰の人生にも当てはまるが、中には時代に押しつぶされてしまう人と自分を失わない人がいる。「私の生涯は順調に来たように見えるが、実は波乱の一生であった。苦しいことも多かったが、若い時分から雑草哲学というものを考えて、どんな難局に立っても、どんな苦労をしてもひるまない、降参をしないという気合を持っておった」という南原徳蔵(元衆議院議員 南條徳男氏)は同じ過激に翻弄される時代においてもいつも自分自身を生きていた。昭和7年の選挙では室蘭を地盤にした小樽の豪商板谷順助に敗れたが、次の出馬ではその地盤に食いこんで彼を落選させ、雪辱を果たす。その陰には落選以降東京と室蘭の間を頻繁に往復し、室蘭に留まって地元の為に働き続けた努力と、何があってもひるまない降参しないという前向きさがある。その思考と行動力は力強い協力者を生み出し、地元室蘭へ多大なる業績を残すこととなったのだ。そのプラス思考は今もなお室蘭に息づいている。作品の中の人物の考え方は対極的であり、南原徳蔵が雑草のように強く明日に向かう明ならば清隆の父大浦隆治はプライドを捨てきれず実際の自分を認めることが出来ない暗である。人生は過ぎれば短くはかない「邯鄲の夢」であるのならば、自分自身で変えることのできる思考というものを今一度考えてみることの価値は思う以上に大きなものであろうと。
〔2015/11/9 菅原由美〕
※南条 徳男(なんじょう とくお、1895年7月7日 - 1974年11月1日)は、日本の政治家。建設大臣・農林大臣。大東文化大学の理事長・学長も務めた。
北海道胆振支庁室蘭村(現・室蘭市)生まれ。仙台の東北中学校(現・東北高等学校)、第二高等学校を経て、1920年に東京帝国大学法学部独法科を卒業。弁護士となる。東大では岸信介と同期だった。学生時代から日本の人口・食糧問題に関心を持ち、自身の「ブラジルへの100万人移住」構想を実現すべく、立憲政友会に入党する。また当時総裁だった原敬に面会し、移民政策について意見を述べたことがある。当時の帝大生の地位の高さが偲ばれる。1923年には立憲政友会法曹団を結成し幹事長となる。
※二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こしたクーデター未遂事件である。
※邯鄲の夢(かんたんのゆめ)
趙の時代に「廬生」という若者が人生の目標も定まらぬまま故郷を離れ、趙の都の邯鄲に赴く。廬生はそこで呂翁という道士(日本でいう仙人)に出会い、延々と僅かな田畑を持つだけの自らの身の不平を語った。するとその道士は夢が叶うという枕を廬生に授ける。そして廬生はその枕を使ってみると、みるみる出世し嫁も貰い、時には冤罪で投獄され、名声を求めたことを後悔して自殺しようとしたり、運よく処罰を免れたり、冤罪が晴らされ信義を取り戻ししたりしながら栄旺栄華を極め、国王にも就き賢臣の誉れを恣に至る。子や孫にも恵まれ、幸福な生活を送った。しかし年齢には勝てず、多くの人々に惜しまれながら眠るように死んだ。ふと目覚めると、実は最初に呂翁という道士に出会った当日であり、寝る前に火に掛けた粟粥がまだ煮揚がってさえいなかった。全ては夢であり束の間の出来事であったのである。廬生は枕元に居た呂翁に「人生の栄枯盛衰全てを見ました。先生は私の欲を払ってくださった」と丁寧に礼を言い、故郷へ帰って行った。
(Wikipediaより引用)