港がある鐵の街 について知っていることをぜひ教えてください

 


齢50をとうに過ぎているので30年ほど前の話になるのかと思ったら、今さらながら時の移ろいの早さに溜息が出てしまう。
わずか4年間しか暮らしていなかったとはいえ、室蘭は思い出深い街。
高校教師としての振り出しの地であり、配偶者を得た地でもあり、度重なる人生の転換点ということもあり、どこかしら望郷の念に似たものがある。

最初から話がそれるが、正に望郷の念にかられる我が出身地は、日本海沿岸の留萌市。そのうち留萌のwikiでも立ち上げようかな・・・・・
生まれは天塩郡天塩町で3歳頃まで住んでいたが、とうぜん記憶にはない。だから自分の原点は留萌だ。

幼少期は浜の近くに住んでいたので、潮の香りも潮騒も当たり前のように受け入れていた。
留萌は世界三大波濤に数えられ、冬ともなれば、鉛色の日本海から陸に向かって吹く強烈な浜風が、いったん地上に舞い降りた雪を空中に舞い上げるため 「 地面から雪が降ってくる 」 と表される荒々しい気候の土地柄だ。
地吹雪があまりにもひどくて小学校で臨時集団下校になった時は、突風に吹き飛ばされないよう友達数人と手を繋いで帰宅したということが何度もあった。朝、玄関に雪が吹き溜まってドアが開かないなんてこともよくあり、吹雪や豪雪で臨時休校になると、家でのんびりと少年ジャンプやマガジンを読めるのが嬉しくて嬉しくて小躍りしたものだ。
北海道の気候も海も、それが普通なんだというイメージしか持っていなかった少年時代。
そんなこともあって、室蘭や伊達の気候には驚いたものだ。

閑話休題。
高台にある室蘭商業高校から眼下に広がる絵鞆半島周辺の景色と、遠くに見える渡島半島は、太平洋の語源のとおり 「 泰平 ( 平和 ) 」で、どこか母性のイメージがつきまとう。背後にそびえる鷲別岳 ( 室蘭岳 )も、ゆるやかな稜線が穏やかな表情を呈しているため、室蘭の第一印象は 「 女性的で優しい街 」 だった。

住み始めてからすぐに気付いたことがあった。
この街には確かに男性的な表情があったのだ。
日が暮れると、新日鐵や日鋼の溶鉱炉の炎が灯りとなって空のスクリーンを赤々と照らし、その様子は幻想的ですらあった。闇夜に浮かび上がる無機質な工場群が妙に男臭さを醸し出していたのだ。

昭和60年当時、室蘭はもはや “ 鐵 ” の最盛期ではなかった。確か、人口は12万人台にまで減少し、私が転勤でこの地を離れることになった平成元年には、新日鐵の高炉休止が発表され全国に知れ渡っていた。

世はまさに重厚長大から軽薄短小へ向かっているまっただ中。それでも私が暮らした4年間、室蘭の工場は昼夜眠ることなく稼働していた。正に、汗にまみれて働く無骨な男達に支えられた “ 鉄の街 ” そのものの風景が今も脳裏に焼き付いている。

こうした優しさと逞しさのコントラストが、室蘭という街に独特な雰囲気をもたらしているのかもしれない。住み慣れてしまうと当たり前の風景。ここに生まれ育った室蘭市民にはどう映っていたのだろう。
“ よそ者 ” であるが故に五感に訴えてくるエネルギーを感じる街だったことは確かだ。

生徒たちには、自分の郷土に愛や誇りを持ってほしいと思った。
「 商業経済 」という科目で室蘭の歴史を調べさせたことがある。自分が調べたことなんてほとんどないが、生徒がいろんなことを掘り起こして研究発表してくれたことには、いたく感激した。

たとえば、室蘭に和人が住み始めたのは1600年頃であるということ。生徒自身が驚いていた。徳川家康や石田三成が関ヶ原で死闘を繰り広げていた頃だ。生徒の調査研究によって、私自身、北海道の歴史に対する理解度が浅いことを思い知らされた。

この周辺の貝塚からは縄文時代、アイヌ時代の出土品も数多く発見されている。9,000年前の先住民が見ていた地球岬と今に生きる私たちが見ている地球岬は、同じだとか違うとか、生徒間で論争が起こったことが思い出される。

また、絵鞆半島はアイヌと和人が交易する場所として栄え、交易船が出入りした拠点であったこと、あるいは、室蘭製鐵所は明治時代につくられたこと、そして私が住んでいた中島町をはじめ輪西や中央町の一帯は新日鐵の 「 城下町 」とか 「 お膝元 」 と呼ばれていたこと、JR室蘭本線の果たした役割・・・・・など。
聞くことのすべてが 「 へえー 」 「 ほおー 」 の連続だったと記憶している。しかし、記憶力の衰えたオッサン には断片的な記憶のみ・・・・・

笑ったのは、 「 私たちの室蘭は、札幌からJRや国道36線でつながっているのに観光資源がない “ 通過地点 ” の街です 」 という研究発表。
「 ここを通過して洞爺湖温泉や函館、登別温泉に行っちゃうかい! という突っ込み甲斐のある街です 」という内容だった。ビデオ画像を駆使した男子チームのプレゼンで、なぜかBGMにレッドツェッペリンの 「 Immigrant Song/移民の歌 」 を使っていたことだけは鮮明に覚えている。

それにしても、こんなに素晴らしい景勝地なのに知られていない室蘭。
そう、私自身、ここに住むまで何の知識もなかったのだ。やはり「 鉄の街 」 というイメージしかなかった。

今でこそ 「 室蘭八景 」 なる名所・景勝地として全国に紹介されているが、当時は、地球岬もイタンキ浜もトッカリショも意外と知られていなかった。金屏風・銀屏風の断崖絶壁も、測量山も、大黒島も全国区どころか道民にも知られていなかったし、白鳥大橋もなかった時代だ。
ハヤブサが棲息し、鯨やシャチ、イルカなどのウォッチングもできるよ、などという話題はもう少し後だ。

私の専門はマーケティングです、などというのは口幅ったいが、当時の室蘭商業高校には、そのマーケティングに命を賭けている松本先生がいらっしゃった。先生との出会いが私のその後の人生を大きく決定付けたともいえる。それは、教師として真面目に取り組もうと決意した、という意味で。
不良青年を更正させる パワースポットむろらん!

「 室蘭を“ 鐵の街 ” ではない観点で研究しPRしよう 」 と言い出したのは松本先生だった。もちろん主体は生徒。商業クラブの生徒と一緒に地元の商店街や商工会議所の方々にインタビューしたり、地図を片手に街じゅうを巡って独自のPRマップをつくったりもした。

当時、雪印乳業の室蘭営業所に勤務していらっしゃた角田幸司さん ( 元スキージャンプ選手 / ' 76インスブルック冬季五輪出場 )には随分とお世話になった。
ところで、生徒達の努力の証しともいえるあの資料の束はどこへいったのだろう。それらは無形の財産として私の中に残り、その後の活動に生かされた部分も多い。

松本先生とはよく釣りにも行った。休日ともなれば陽が昇らない時間から室蘭港の埠頭に糸を垂れてキュウリウオを釣った。陣屋町側の防波堤に行ったり、函館どっく、楢崎造船側に行ったり、その日その日で釣れるポイントも変わり釣果はまちまち。

キュウリウオは新鮮だと刺身にしても旨いというが、キュウリ臭くてオエッ! となるので個人的に刺身はダメだった。野菜のキュウリは好きだが魚がキュウリ臭いのが許せなかった。
ヒョイヒョイ釣れるのが面白くて、お付き合いで釣っていたようなものだ。

「 キュウリがクーラーボックスいっぱいになるまで釣るぞぉ! 」 と言われて、朝から夕刻まで岸壁にいたこともあった。釣りをする時の食事は松本夫人の愛情弁当。
「 奥さんのつくるものは何でも美味しいっス 」 を連発していたら、ふだん学校で勤務している時にもお弁当を頂くことがよくあった。思っていることを正直に言うといいことがあるものだ。
でも、キュウリウオの天ぷらが入っていたときは、さすがに涙が出そうになった。

またひとつ思い出したことがある! 
あの時、釣り好きの松本先生に付けたあだ名が 「 岸壁の父 」
わかるかなぁ。わかんないだろうなぁ・・・・・・・・
室蘭の想い出は尽きない。〔 2014.09.10 

鈴木恵一 〕

 

写真


SLと輪西と新日鐵新日鐵

〔2014.10.15 倉地 清美 〕