木綿という生地は、今ではあたりまえのように使われている。綿花から紡がれる糸で織られ、古来から日本でも用いられてきたのかというと、そうではないらしい。

15世紀ごろになって、綿花が日本でも栽培されるようになった。

綿花の花が終わった状態羊毛同様に紡ぎやすい

 

今の大阪辺りで木綿が市場を賑わせていたらしい。

江戸時代に入り、武士や貴族の特別な衣服から、一般庶民に行き渡り始めたのだ。

米の五倍ほどの収入源を、綿花はもたらしたという。

 

綿花の栽培には大量の金肥が必要だった。

金肥はイワシやニシンから作られる。

新千歳空港で入手した糠ニシン

 

はじめ東北地方などのイワシが用いられたが、それも取り尽くされたのか、蝦夷のニシンが、はるばる近畿地方まで船で運ばれた。下の広重の浮世絵は,江尻ということなので,いまの静岡辺りから伊豆半島をながめた構図とおもわれる.

江尻の海には多くの帆かけ船が描かれている

驚くほど多くの廻船が描かれている.これは東海道から見た海なので,直接ニシンを運んだ北前船では無いが,江戸時代には日本列島の北から南まで,想像以上の船が様々な産物を運んでいた様子がうかがえる.

 

当時の日本の人口は1000〜2000万であったといわれている.すべての日本人に木綿の着物が行き渡るのに必要な綿花の量はどれほど多かったことか。

それ以前は日本人は主に麻布を身にまとっていた。木綿は麻よりも圧倒的に暖かく、染色も容易なのである。

蝦夷のニシンが日本人の着るものを一変させたとも言えまいか。

 

 

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