輪西で市民会館が活きる について知っていることをぜひ教えてください
室蘭の中核の一つ輪西の街に変わった建物がある
中心で灯りを灯しているショッピングモールと公共施設。市民会館という室蘭市最大の文化施設がショッピングモールとくっ付いてなぜここにあるのだろう。誰が、どうやって建てたのだろう。
地元の店が集まったショッピングモール「ぷらっと。てついち」と、市民会館と市立図書館の分館が一つになっている。
これを立てたのは輪西の商人たちだった
2002年(平成14年)7月1日
敷地面積
13,757.47㎡(商業施設含む)
建築面積
2,416.96㎡
延床面積
4,315.91㎡
高さ
17.65m
規模・構造
鉄筋コンクリート造3階建/ハートビル法認定建築物
その隣には新日鐵住金の労働組合の建物、反対側の隣には公園を挟んでツルハドラッグというドラッグストア。そして、その隣に、2015年、新たに新日鐵住金の独身寮ができる。人口3,500人程度の街に200人以上の入居者が増える。これらの敷地はもともとなんだったのだろう。
輪西には仲通商店街がある。道路の地面が綺麗なタイルで舗装されている。開いている店の方が少ないと思いながら歩いていると100年続くというとびきり旨い豆腐屋や、進駐軍のころからのジーパン屋、米屋、パン屋、ラーメン屋、西洋料理の店、焼き鳥屋、喫茶店、オーセンティックバー、じっくり観ると仲通や周辺に元気な店がだんだん目に入って来る。おかしな祭もやっている「輪西だからワニ祭。だからワニ肉食え」ってなんだ?「あれ、輪西の神輿こんなにお兄ちゃんが沢山輪西にるのかい?」「いや、他所からも担ぎにくんだよ」。室蘭全体に広がった「室蘭ねりこみ」という祭、神輿の競い合いが輪西発祥だという。
黙々と煙を上げ続ける新日鐵住金の高炉。夕陽と重なるとなにか胸が痛く、暖かい食事にありつきたくなる。7条の大通のふじとりに行くと、とみちゃんが「お帰り、今日はどこで飲んできたのさ」「いや、ここがはじめてだよ」「あーそうかい!」。60年続く焼き鳥を焼いている。
室蘭市は中心を何度も変えた街
松前藩の時代室蘭の名前の由来になった「モルエラニ」が「モロラン」と呼ばれるようになり、アイヌと和人の昆布等を交換する場所として歴史に登場する。それは現在の崎守町。モルエラニはアイヌ語で「小さな下り坂」という意味だそうで、伊達方面から山道を歩いて坂を下ると、現在の崎守町だ。ここから登別方面への陸路、山道は険しく、現在の中島町界隈は、谷地とよばれる湿地だったため交通が難しい。明治の開拓の時代、函館から札幌迄の道の整備として、森とトキカラモイ(現在の海岸町)を結ぶ定期航路ができ、海岸町辺りを新室蘭とよんで中心を移す。ここから、札幌への道が整備された。
その後、万字炭山や夕張からの石炭が運ばれ、製鉄に使われる。小樽、幾春別間の輸送では間に合わなくなり、鉄道が今の輪西の近くに敷かれると、そこが室蘭駅と呼ばれた。
現在の室蘭市役所の辺りを室蘭の中心とする本町や中央町の町名がつく。室蘭の名前を失った町は輪西の名前を配された。もともとの輪西村は本輪西と呼ばれた。谷地の水が抜かれ、東町、中島界隈が平地として活用されるようになったとき、室蘭の繁栄の中心は中島界隈に移った。
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輪西は二番手の町として
市役所等の官庁と図書館、市立病院などの公共施設、埠頭、客船埠頭、繁華街が集中した室蘭界隈。それに次いで、新日鐵の膝下として栄えた輪西は、室蘭第二の街として発展した。公共施設の一つ、市民会館と役所の出張所が配置された。
室蘭市の人口は昭和44年(1969)の1,836,005人をピークに激減。平成27年(2015)4月末現在で89,204人。輪西地区は1963年の苫小牧港開港を受けたあともなお、登別、伊達を含む商圏をもつ力のある商店街があり、最盛期の商圏人口5万人と言われていたものが、輪西の平成27年(2015)4月末現在3,441人で、中島町など他の町に買い物客を奪われ、人口よりも商圏人口は少ないとも言われている。
繁栄を過ぎて、新日鐵の資産が減って行く。自動化が進み、職員は激減し、輪西に配置されていた市民会館を室蘭市が建て直すことは財政的にむずかしい。或は、ないと言われていた。一方で、二階建、エレベータもなく、駐車場もない、耐震問題もある古い市民会館をいつまでも置いておけない。ホールを使うと「音が漏れる」という理由で会議室が使えない。その逆もまた同じ。老朽化も激しかった。
住民の意思を一つに編み上げたのは商人たち
輪西の人々は、自分たちの街を、自分たちで運営する気概がある。例えば、1960年代以降の公害問題を解決する為に、住民は一丸となって新日鐵のとコミュニケーションをとった。労働者、下請けと言う立場、納品業者と立場で個別に当たる交渉はし難いため、必然的に、商業者が中核を担い、16ある町会が要求をまとめて、冷静に筋を通して、輪西の意思を一つにまとめ、様々な交渉にあたるスタイルが確立した歴史がある。
住民が議論を積みあげてゆくとき、商業者たちが世話役をつとめ、現場で話し合う姿勢は市役所との関係でも貫かれる。「商売をしていても頭越しに話しをされては嫌なものです。私達は現場の職員を大事に話し合いを進めます」と輪西商店街振興組合現理事長の土田昌司郎さんは言う。
もちろん、公害はあってはならない。市民に選ばれた市長が製鉄所がなくても成り立つ街をつくろうとしたこともある。しかし、輪西の人々は工場を大切に考え、公害を無くし、共存する方法で意識を合わせて行った。
丁寧に新日鐵と交渉を続け問題を解決してゆく。
企業にとってこんな街はどう映っただろうか。新日鐵住金は、巨大な日鉄から、戦後解体されて、また合併をして生き残ってきた会社だ。新日鐵の社員の中には「室蘭出身」という言葉があるという。これは、出生地ではなく、室蘭製鐵所に席を置いたことのある社員のことで、一度室蘭に席を置くと、輪西のでの生活、輪西の住民との交流、そして室蘭の港と北海道の風景が忘れられないのだという。そんな室蘭出身者に話を伺うことができた。「ヨットハーバーで、リゾートで生きていくから、公害を出す工場は出て行けっていう市長が選ばれたとき、室蘭市民は新日鐵が嫌いなんだとおもって心底落ち込みました。でも、公害を問題を丁寧に解決してゆく姿や、輪西の人たちの市民会館を再建する動きを見たとき、僕、本社にいたけど、泣きましたよ。嬉しくて。ああ、僕たちは室蘭出身なんだなあと思ったのを覚えています」と。鉄のまちフェスタはそんな輪西住民と現在の新日鐵住金の共同のお祭り。
作ること、維持することに全力を尽くしてみる
「若い頃にね、諦めてとっても嫌な思いをしたことがあるんですよ。だから、壊すのは簡単だけど、壊さない。止めるのは簡単だけど止めない。作ること、維持することに全力を尽くしてみるのはいい生き方なのかなと思いまして、それからはずっと諦めないで70歳になってしまいましたよ」と優しく笑う平武彦さん。現在室蘭市観光協会の理事長で「ぷらっと。てついち」設置時の輪西商店街振興組合の理事長。
人口が激減したので200メートルを超える商店街を短く、買い回りし易く、コンパクトにまとめたい。雨風雪を考えないで買い物をしてほしい。市民会館を良い形で残したい。輪西の街に暮し続けたい気持ちを抱えているときに、新日鐵の高炉休止宣言が出る。
住民達はこの危機に一層その力を結集させることになる。住民と輪西商店街振興組合員と輪西活性化推進協議会をつくり、この会が、新日鐵、市役所と住民と商業者の全てがじっくりと話し合う場になった。また、忘れてはならないのは地元メディアの応援だ。室蘭の宝、室蘭民報が徹底して正しい報道を行う。それが、この土地の活動を励まし、記録した。
平さんはいう。「私は高炉を止めることを反対する運動を起こしました。そして、それは、高炉が止まったとしても、生き残ることを目指した活動で、輪西だけに留めず、室蘭全体の復興をするつもりだったんです」。「輪西は」と主語を輪西で耳にすることがよくある。「輪西は自分の立場だけでは動かないんです。企業人だって、行政マンだってそれぞれにその思いがあるから、それぞれの気持を大事に、手に入れたいものを手に入れて欲しい。輪西はそこから道を見出したい」と。
住民組織が開発業者を雇い、市民会館とショッピングモールを作る
輪西活性化推進協議会は、輪西の全ての要求を集め、新日鐵の社宅の跡地にショッピングモールをつくり、それを新しい市民会館と同じ建物で運営することを決める。一方、鉄筋コンクリートの頑強なかつての新日鐵の社宅を取り壊すための費用は、住民たちの団体が手を上げて国の支援を受けてすすめた。企業は社宅を取り壊す費用、数億円を再投資に当てることができた上、土地を貸して地代を受けることができた。
住民組織が開発業者を雇い、建設して市民会館部分を市役所に売却する。運営はそのためのNPOをつくり、代表は輪西の商店主がつとめる。また図書館の分室を市が設置すると、その運営も住民のボランティアで夜9時迄と利便を追求する。商業施設部分の運営には新たに輪西中核施設協同組合をつくり、入居した老舗酒店の三代目、松永英樹さんが代表理事を務めた。
松永さんは東京の大学で経営を学び、百貨店で画商として商いを学んだ。そのまま東京に家族を呼び寄せるほどの成功をおさめていたものの「僕は松永の三代目。家業を継ぐんだ」と子供のころから刷り込まれたものに突き動かされて帰輪。先代までに拡大した店舗や従業員の住宅等を切り替えて不動産収入を得られる収益構造をつくり、当時参入した酒類の激安店と徹底した闘いを展開する。「絶対に商売で安売り店には負けない。そんな店のたたみかたはしない」と決意していたという。
松永さんだけではないだろう。輪西の商店主達が、専門化やサービスのきめ細かさ、ネット、商圏の拡大など、様々な努力をして命をつないだ店が「ぷらっと。てついち」のテナントに入ったり、もともとの開業の地で営業を続けたりしている。
地元のスーパーマーケットを核店舗にして、輪西のお店がテナントに入る形で、手作りのショッピングモールが生まれた。
最初に入った核テナントが破綻したあと、松永さんは一つの決意をする。自分が持っている酒、タバコ、米の販売権を次に入るスーパーマーケットに渡してしまおう。大好きなワインだけでも販売を続けようかという考えが一瞬よぎったが、すっきりとやめてしまった。商店街の事務局長の大坪さんは松永さんを指して「頭おかしいんだよ」と愛情を込めて笑う。この大坪さんが輪西の商人たちのそれぞれの役割をよく把握していた。
安売り酒店には絶対負けないと守り抜いた店。松永さんの中ではその営業権を放棄してでも守りたいものは、輪西の賑わいだった。室蘭の経済だった。子育てサロンのワニワニクラブを運営する吉田さんは「あれは、感動して涙出ましたよ。心から尊敬します」という。
保育施設と図書館分室、高齢者のサロンが人を集める
商店主達は考える。「子どもとお母さんには輪西で一番便利な場所で過ごしてもらいたい」と、近隣で骨のある託児、保育活動を続けていた吉田淑恵さんをモールの一員として呼び寄せた。吉田さんはいう。「法律に縛られずお母さんたちの生活を助ける、子供にとって本当に必要な環境を用意したかったの」。
発足するのがワニワニクラブだ。保育園に行く前、学校に行く前の子どもが集まる。お母さんだけじゃない。お父さんが子供と一緒に来ていたり、お婆ちゃんが来ていたり。生徒児童もやって来る仕組みになっている。これが、輪西だけじゃなく、登別や伊達からも子どもと保護者を呼び寄せて輪西の昼間人口を増やした。
利用者も、運営者もとても楽しそうにすごしている。隣の図書館で紙芝居や絵本を読む時間もある。そして、月曜日はお年寄りのサロンが開かれる。民生委員の方々が社会福祉協議会と連携して、今度はお爺ちゃん、お婆ちゃんが、工作したり、歌を歌って過ごす。
「15年つづきましたねえ。みんなでよってたかって、こんな立派な入れ物を作ってくださって。私達は本当にやりたいことをやり抜いたの」と吉田さんは笑う。人にやりたい仕事の場を提供し、生まれるサービスは人を集める。輪西商人の思いは確実に輪西の人口を増やしているではないか。
「まあ、いろんな形でお金を捻出してくれて、こんな立派な施設をつくってくださいました」という。15年たったとは思えないほど、丁寧に使われた室内は今も美しく清潔だ。吉田さんはさらに、隣町で一旦経営を諦めた保育園を輪西に誘致してしまった。「優れた保育士には休んでいてもらっちゃ困るの」と言いながら、大家さんやご近所との調整をやってのけてしまう。
民生委員たちと協力して週に一回、お年寄が集まる日がある。そこでピアノの演奏が響いている。「輪西には素敵なピアニストがいるの。ね、いいでしょ、輪西って」と胸をはる吉田さん。
そのピアニストとは、5代続く輪西の豆腐店、間嶋豆富店の5代目の奥様だった。次の週には心太を配達してねと、あっと言う間に注文票をつくってしまう吉田さん。そして、みるみる注文が集まってゆく。
若者と余所者の活躍
筆者が輪西の街を尋ねて最初に入った店は「ふじとり」という60年つづく焼き鳥とラーメンの店。ちょっとのはにかみはあるものの、最大の努力して余所者を楽しませる配慮に満ちたおじさん達に囲まれた。笑ったり泣いたりしながら酒をのみ、二回目からはもう常連扱いだった。ありがたい人たちだ。それが、行く店、合う人に共通する感じがする。
50年以上続く輪西青年経営研究会は、当時の青年たちが40歳迄ときめて、頭のあがらないおやじさん達とは別に勉強を始めた。平さんたちの若い頃だ。日本青年会議所に参加の人達もがんばるのだけど、そこに入らない「アンチ青年会議所」の人た達も自然に活動するから、輪西の若者の総力が集まるのだという。そして、「おもしろいから」と輪西以外にも声がかかり若者があつまってくる。
90年代、青年達は徹底して英仏が行って来た官民パーナーシップPPP(public–private partnership)の一つであるPFI(Private Finance Initiative)について学んだという。
高度成長が終わり、輪西の目の前で新日鐵が高炉の休止を宣言したのは、1987年。高炉存続決定
したのは1990年だった。イギリス病といわれる長い不況のなかで、サッチャーが打ち出した規制緩和と小さな政府の志向。この路線を引き継いだメイジャー政権が1990年に発足してPFIを導入する。
そして、1999年、日本でもPFI法(民間資金等の活用による公共施設等の整備等の促進に関する法律)が施行された。2000年にスタートした住民による市民会館の運営と同じ建物で展開する商業施設、融合する図書館や子育て支援での市民活動。輪西は日本で初めてのPFIの本質を先取りした住民の闘いだった。
他所から来た若者が自然に集まって輪西の祭の神輿を担ぐ。消防団の第六分団にはなぜか、他所の分団の地域の人々が入団している。集まってきて夜回りしたり、一緒に楽しく酒を飲んでいる。「いや、誘われたし、たのしいから」と輪西の受け入れの良さが光る。呼ばれた人が、また人を呼ぶ。
逆境こそチャンス
もし、市役所に税収が潤沢にあったら、輪西の人口が減らなければ、ただ市民会館の改築を要求したかもしれない。新日鐵が公害の問題を抱えなければ住民はここまで仲良くならなかったかもしれない。新日鐵が高炉を止めるといわなければ、議論は深まらなかったかもしれない。親父達が厳しく経営をしていなかったら、若者たちはそこに甘んじていたかもしれない。人口が減らなければ、輪西の神輿を余所者が担がなかったかもしれない。信じられないような逆境のなか、自分の街を諦めるどころか、それを「チャンスに換えてしまったあ」と、そんなことを言う輪西の人たち。失敗を笑いこけるおじさんたち。それを、笑いながらみてる母さんたち。
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