輪西と共にいきる人の一生 について知っていることをぜひ教えてください
今回は縁あって、杉山幹夫先生とご一緒に倉地清美さんの話を伺いながら、
輪西の過去をなぞる散策に出かけました。
「小さい頃よく、おやじを迎えに行った」と倉地さん。
生まれてこれまでずっと輪西で暮らす倉地さんの語る言葉は何故か、
セピア色だけど鮮明な、輪西を舞台とした昭和の一場面を平成生まれの私の脳裏に焼き付かせました。
早朝から働いて昼3時に仕事が終わった後、汗臭い男たちは正門でタイムカードを押し、
線路を越え、旧国道36号線を渡り、肩がぶつかるほど混み合う道路を歩き、輪西の中の社宅へと帰ってゆきます。
新日鐵住金室蘭製鐵所の正門
右側の守衛所のある辺りでタイムカードを押す
でもその前に、
飲み屋へと男たちは消えてゆくのです。
倉地さんのお家では、
新日鐵で働いていらした倉地さんのお父様が帰宅するまでは、夕飯が食べられませんでした。
飲み屋にいるお父様を迎えに、賑わう輪西の街を走る少年倉地さん。
お父様がいらっしゃりそうなお店の見当をつけて、飲み屋を巡ります。
お父様に随伴するご友人たちは、「よっ、来たな坊主」と少年倉地さんを迎え、
お父様が飲み終わるまで待つ倉地さんはつまみを頂くこともあったそうです。
「おやじの帰りが遅いときは腹が減って嫌だなあと思ったけど、
お土産を帰って来たときは、『もういくら遅くたっていい!』と思えた」と倉地さん。
お父様がいらっしゃったお店の中に、あの名店「ふじとり」もあります。
今回の輪西訪問で行けなかったのが、食いしんぼの私としては非常に残念であります。
よく見たら車掌さん
製鐵所の見学をした事がありますが、中はとても熱い蒸気と鐵を冷やす油の独特な臭いで充満した特殊な環境。
現代ほど工場の設備も優れていなかったであろう高度経済成長期の最中、沢山の男の人たちがどれだけ一生懸命働いてくださったか。
そんな彼らが、会社を出て、酒と美味しい食べ物に癒され、そして家庭に帰っていく。
そんな父親たちを見つめ、支える家族。
そうした過去があり、現在の日本があって、私たちがいる。
例えば、他人の家のテレビで初めてプロレスを見る子どもたちと、それを許す家人。
例えば、通い帳(信楽焼のたぬきが持っている帳簿)を持って買い物に走る子どもたちと、それに応える商人。
その中のひとりであった少年だった倉地さんが、今こうやって現代しか知らない私にその過去を語ってくれる。
そんなことを考えると、言葉にできないような、なんだか鼻の奥がつんとする思いを感じます。
今回はここまで。