カンナリキの息子、金成太郎(かんなりたろう)

現在の登別市幌別にアイヌたちが築いた経済圏があった

 

父、カンナリキは経済的に成功していた

太郎の父、カンナリキ(金成喜蔵)は幌別で漁業、農業で成功し、宿屋を経営するなど多くの雇用を生む実業家であった。キリスト教を信じていて、正直者として徳望が高く、酒もタバコもやらない人物で、幌別にアイヌのための学校を作る活動をした。廃使置県、室蘭も含めて札幌県管轄になった年、1882年(明治15年)に札幌県に対して「幌別旧土人学校設立嘆願書」がカンナリキ他5名の署名で出されている。嘆願書の中身には、カンナリキの長男、金成太郎を札幌県が教員として採用することと要求すると同時に、幌別のアイヌたちが所得に応じて教室に当てる建物を建てる費用などを出すことを歌っている。1884年(明治18年)の納税記録で、アイヌが15人、和人が11人納税している。明治維新以降、旧土人保護法が成立するまでの間、アイヌと和人は対等な経済力を持っていたと言えると「金成太郎伝」を著した富樫利一が指摘している。

 

日本語、英語を体得し、聖書をアイヌ語に翻訳

金成太郎は1860年(安政7年、万延元年)生まれのカンナリキの息子だ。12歳のとき1872年(明治5年)に室蘭の常盤小学校に学ぶ。幌別のアイヌの中では初めての就学とされる。オビシテクル絵鞆小学校を作るのは1892年(明治25年)である。

太郎は実家の財力がある上に、師範学校在学中に師範学校付属小学校に勤務するという評価を受けていたので、妬みを買ったという説がある。幌別に戻った後、平取での布教を一旦撤退したイギリス聖公会のジョン・バチェラーと太郎が出会う。太郎は彼にアイヌ語を教え、聖書をアイヌ語に翻訳する過程で教義に傾倒し、1885年(明治19年)25歳で洗礼を受けることになる。アイヌで最初の受洗者の誕生となった。

 

ローマ字によるアイヌ語教育が「金成マツノート」を生む素地となった

アイヌのための学校を作ろうとして政府と交渉するも、挫折した太郎は、1885年(明治19年)に自宅で私塾を開く。その後、バチェラーとともにアイヌのためのキリスト教と学問を学ぶ私立学校を設立することになる。文字を持たないアイヌ語をローマ字で表記し、これを教育の柱とした。この時代にローマ字教育を受けた人々はアイヌ語をローマ字で手紙にしてやりとりするなどの日常使いがあったことが伝えられている。幌別から函館に舞台を移した後、従姉妹で優秀なイメカヌとノアカンテ (金成マツ、知里ナミ)の姉妹が招かれている。イメカヌとノアカンテは「アルファベットを読み書きすることに全く障壁がない」状態であったとされ、後にイメカヌの養女となり19歳でこの世を去ったノアカンテの娘で、知里真志保の姉、知里幸恵が「アイヌ神謡集」を書き上げた重要性に気づく。そのあとの生涯で「大学ノート1万数千ページ」と言われるユカラなどのローマ字記述を成し遂げた。「金成マツノート」と呼ばれている。

 

アイヌ語教育が公から姿を消したのは1899年の「北海道旧土人保護法」以降か

太郎とバチェラーの愛憐学校の取り組み以前、1880年(明治13年)に札幌県が平取、1802年(明治15年)に函館県が遊楽部(現八雲町)、1885年(明治18年)に根室県が白糠にアイヌ学校を設置しているものの、1886年(明治19年)の三県廃止・北海道庁設置後、政府・北海道庁は1887年(明治18年)には小学校への補助金を全廃するため運営は困難を極め休止に至る事例も出ている。一方で、東北などからの大量の入植が始まり、アイヌはその生活基盤そのものを奪われることになる。聖公会は翌年、1888年に幌別に愛隣学校を作る。それ以降、1898年までに函館、春採 、塘路、白糠、白人 新冠などに学校を設け、平取などに講義所を設けた。1897年にはアイヌ語 の新訳聖書が発行されてる。太郎の没年は1895年(明治28年)だとされている。

1899年(明治32年)政府が制定した私立学校令と北海道旧土人保護法によって、学校を舞台にしたキリスト教の布教ができなくなり、政府による「土人学校」がつくらるようになったため、聖公会は1905年(明治38年)に函館の愛隣学校は閉校をはじめ、公的学校に引き継がれた春採以外を廃校している。これ以降は、アイヌの児童への教育は日本語を前提とする時代となった。1990年代までにはアイヌ語を母語として育った人々がこの世を去ることになる。

 

自由を失うことで手に入れる時間と「仕事」

イメカヌは脚が不自由なため、出歩くことができず、母親が彼女の身の回りの世話をしていたので、母モナシノウクからユカラを授かる時間があったと甥の知里真志保は指摘している。アイヌの家庭や経済基盤を失ったコタンでユカラを語る機会が既に無くなっていた中で「金成マツノート」はアイヌ語を母語にしたアイヌが文字でその言葉を書き残した貴重な資料となった。

 

史実として記述を残すキリスト教の文化

明治の初期、アイヌの中に経済的な成功者がおり、その財を地元に還元していたこと。また、キリスト教とともに欧米の合理主義や学問を身につけ、急速な日本化の中で、教育の力による言語、文化の保存と、民族の誇りを確保しようとしたアイヌがいた。それが、キリスト教の布教の歴史として書き残されていた。


参考文献

金成マツ婆さん

おば金成マツのこと」「金成マツとユーカラ」1961.4 知里真志保

函館と近代アイヌ教育史谷地頭にあったアイヌ学校の歴史 」2016.3 小川正人

「日本プロテスタント海外宣教史」2011 中村敏

「伏流 」金成太郎伝 2004,4 富樫利一

知里幸恵の背景を探る」ー旧土人保護法成立以前のアイヌの人たちー 2004.8 富樫利一

 

 

「伏流」で伝えられる太郎像


明治時代、幌別のコタンに金成喜蔵という人物がいた。太郎の父である。「金成喜蔵は七十有余にて性質正直にて和人、同族両者の間に勢力があり、徳望極めて高く、金成の言と言えば首を傾けぬ者なしとか。アイヌに稀なる財産家にして数多くの雇人さえ使役し漁獲、耕作等に従事し其の住家の如き、同村の和人の家に比するも上等の部に入るべき程にて、耶蘇教を信じ煙草一服、酒一滴も飲まず」(「北門新報」明治30・7・7)といわれた傑物だった。その子・太郎は、アイヌで初めて室蘭の小学校に学び、札幌の教員養成学校を卒業して教員免許を取得。教育の重要性を痛感してアイヌだけの学校をつくろうと政府に働きかけるが実現ならず。英国人宣教師ジョン・バチェラーと共に幌別に相愛学校を設立し、アイヌ語のローマ字教育などを試みた。


戊辰戦争で敗れた仙台藩片倉小十郎家臣団が現・登別市幌別に入植し、地元アイヌの人達の支援を 受けて開拓を続けました。家の繁栄は教育にあると 言うことで設立された寺子屋に、家臣団の子供はもちろん、アイヌの子供達も一緒に学ぶ機会がありました。この中にアイヌ人として初めて師範学校を出て教員 免除を取得した金成太郎がいた。

(「伏流 」金成太郎伝 2004,4 富樫利一 )

http://www.sairyusha.co.jp/bd/isbn978-4-88202-867-3.html


金成 太郎

wikipediaより CC-BY-SA

金成 太郎(かんなり たろう、1860年(万延元年) - 1895年(明治28年))は、アイヌで最初にプロテスタントの洗礼を受けた人物で、アイヌ最初の伝道者である。金成マツの従兄である。

幌別のアイヌの長老の家に生まれた。室蘭常盤小学校でただ一人アイヌ生徒として教育を受けた。聖公会の宣教師ジョン・バチェラーにアイヌ語を教えていく中で、キリスト教に入信して、1885年(明治18年)アイヌとして最初の洗礼を受けた。

後に、母親や従兄の金成マツらの親戚の多くがクリスチャンになった。校長の資格があったので、バチェラーが創設した愛隣学校の校長になりアイヌの子どもたちを教えた。また、アイヌ最初の伝道者になる。

1895年肺結核で、35歳で死去した。

参考文献

中村敏『日本プロテスタント海外宣教史』新教出版社、2011年


 

 

参考リンク

金成太郎 - Wikipedia

 

 

 

 

 

知里幸恵の背景を探る - アイヌ文化振興・研究推進機構

 

 


金成太郎 について知っていることをぜひ教えてください