長男の出家 について知っていることをぜひ教えてください
長男の出家 禅 三浦清宏
1987年下半期芥川賞受賞作品
親がいちばん修行の妨げになる
この小説は出家という特殊な縁による親離れ子離れを描いているので、このまま自分の親子関係に当てはめてみるのは難しいが、出家を子供 が希望する将来という言葉に置き換えて考えてみるともう少し、身近なものへと考えることが出来ると感じた。自分がこれまでぶつかってきた子供との意見の違 い、子供が自分の将来を見つけた時に親の経験値だけでそれを阻止してきたことに思い当たるものでもあった。「親がいちばん修行の妨げになる」身に詰まされ る言葉であった。親と子は別の人格であり、それぞれの人生を生きなければならないのであるのだろうと改めて考えさせられもした。実際のところは、わかって はいてもとても難しい課題でもあるというのが私の本音でもあるが、今一度考えるべき大きな価値ある事であると素直に捉えてみた。
息子自身は、自らが決断した新たなる人生、由緒ある寺の後継者としての道を突き進むが、残された両親と妹は失われた息子と兄、家族を出家とい う特殊な縁により失ってしまった不安と悲しみから苦しみ揺れ惑う。その残された家族の葛藤は長い間続くものではあった。しかし、当の長男は日々成長し、辛 く過酷な僧への修業を自分の人生としてとらえてもいた。変化に耐えられていないのは出家した長男ではなく親の方なのである。長男の新たなる親となった尼僧 ならば、自分の命を懸けてでも息子に修行を続けさせて立派な僧へと育ててあげてくれるだろうと信じることで、長い期間繰り返されてきた葛藤から少しずつ解 き放され、残された家族も明日へと心を向けて生き始められるようになる。現に尼僧は、残された人生を長男の修業のために使い切るのである。約束は果たされ たのである。
作家と作品の背景
東京大学から一年の休学を勧められても未練なく退学届を提出し、妻を亡くした後再婚してその相手の収入に頼る生活をしている父も、学生運動にのめり込む友人達も、この日本で起こった全てと決別する覚悟でアメリカに渡った三浦清宏。マンハッタンでの生活は、自分の膚のぬくもりを感じて、かろうじて生きている気になったほどの孤独感にさいなまれるものでもあった。
通訳などのバイトが出来るほどの語学力を持つ身でありながら、当時アメリカの若者たちの流行となりつつあった日本の禅について行きずりのアメリカの二人連れの青年から尋ねられた時、寂しさから荒みきった心に呑みすぎたハイボールの酔いが手伝って、わざと酷い日本語アクセントでろくに英語を喋れないふりをし、相手を指さしたり、自分を指さしたり、あらゆるものを指さして「ジース・イーズ・ゼーン」とからかった。その嘘はすぐに見破られたが、憐れに思われたのか殴られる真似事だけで見逃された。その後永年に渡り己の惨めさから借りを作った気持ちとなって残ることになる。
アメリカでの放浪生活に終止符を打ち結婚して東京郊外で暮らし始めた頃に、平安朝からある由緒ある寺でありながら時代に翻弄されるままに住職もなく荒れ果てていた禅寺と、それをもう一度立派に立て直すためにやって来た「睨んだ時には鋭い目つきだが、話をしながら笑うとまるで地蔵が笑ったような人懐っこい顔になる」尼僧に縁を感じ惹きつけられる。
「いまの人間はみな遠くばかり見ている。その鼻づらを引っぱって地面に眼を向けさせる。それが坐禅というものです」
妻が好まないのを押し切り坐禅に通い始めたのが、息子が生まれたのと同じ年の冬であった。
息子との別れ
父(三浦清宏)が息子(長男)の面倒を見ない反動からなのか、よその家へもぐりこんで勝手に戸棚を開けて菓子をつまんだり、友達と徒党を組んでマンビキしたりと息子の奔放振りは親を強く狼狽させた。相談した和尚は、一緒に連れてくるようにと諭し、親子は共に坐禅に通うようになった。小学1年生から通い始めた息子は「お坊さんになりたい」と3年生の頃から言いだし始め、6年生の頃には大人と同じように一回四十分を約三回坐るようになっていた。初めは子供特有の夢物語であると思っていたが、日を追うにつれ息子が僧になるという考えが最も素晴らしい将来であるという父の心の中での既成事実と変化していった。
そんな折、中学に入ったころから学校で注意人物として目を付けられている生徒との付き合いが始まり、他校の生徒との乱闘事件を起こしたり、ポルノ雑誌の回し読みや喫煙など、次々と問題を引き起こし始めた。成績もガタ落ちし挙句の果てには坊さんにはならないとまで言い出す始末。親の手に負えずにすがるように夫婦揃って和尚に相談し、宗門の子が行く学校へと編入させてもらうことに。編入させるための条件は得度式を済ませることである。いわば、仏に仕える僧になる式であるのと同時に、実の親や兄妹との縁を断ち切るという儀式でもあるのである。
道を外れている息子を正道に導く為にこれが一番良いと考えた結果の得度式でありながらも、実際にその場になるまでは息子が自分たちの子供では なくなり、仏に仕える身になり、これまでの親子関係や家族関係がすべて終わりを告げることを実感できてはいなかったのであろう。もしかしたら、僧になりた いと考えたのは一時的な思いであって、本当は普通の子供たちのように、友達と遊んだり自分の趣味に没頭したりと楽しい人生を過ごしたかったのではないの か、親の永年の心の借りを息子に押し付けたものではないのかとまで不安な気持ちが及んだのではないのだろうか。
得度式の儀式は息子が両親に別れを告げるところから始まった。「お父さん、長いことお世話になり、ありがとうございました」「お母さん、長いことお世話になり、ありがとうございました」頭を剃り、白装束姿の息子の姿はもはや親の手の届かない世界に行った気持ちにさせ、現実のものではないようにさえ感じさせる現実のものだった。親子の縁とはそんなにはかないものだったのか、今までのことはすべて帳消しになってしまうのか。親子とはいったい何だったのか。親子との縁とは単なる妄想にすぎないのか。習慣の生み出す固定概念なのか。誰もが親であり子であるという顔をしているにすぎないのか。
〔2015/8/5 菅原由美〕
三浦 清宏(みうら きよひろ、1930年9月10日 - )は、日本の小説家、心霊研究者、元明治大学理工学部教授。北海道室蘭市に出生。東京大学文学部英文学科に進んだものの学生運動で休講続きの東大を嫌って21歳で中退し渡米、聴講を含めて3つの大学に通い、アメリカ・サンノゼ州立大学卒業後、アイオワ大学ポエトリー・ワークショップ修了。ヨーロッパを巡った後、62年、31歳で帰国。1957-58年、アイオワ時代に米国留学中の小島信夫と知り合い、帰国して半年小島と同居。
1967年から2001年まで、明治大学助教授、教授として英語を教える。70年、『群像』に小説「立て、座れ、めしを食え、寝ろ」を発表する。1975年、「赤い帆」で第72回芥川龍之介賞候補。1988年、「長男の出家」で第98回芥川龍之介賞受賞。2006年、「海洞」で第24回日本文芸大賞受賞。
また、禅や心霊の研究に関心を持ち、1991年から1999年まで日本心霊科学協会の理事を務める。
(ウィキペディアより引用)