任天堂のおもちゃ について知っていることをぜひ教えてください

 北乃博物館の若木館長に用事があり会いに行ったところ、まずこれをみてくれとおもちゃの変遷を語り始めた。若木館長は最近、自分の年齢を憂慮しているように見える。つまり自分が旅立った後にこの博物館がなくなってしまうことを心配しているように思える。だから若木館長の思いを一人でも多くのひとに伝えたいと願っているのだろう。さて、館長は江崎グリコキャラメルのおもちゃの変遷について語ったあと、任天堂の話になった。任天堂はトランプなどのおもちゃを若木玩具店のようなおもちゃ店へ卸す仕事を初期のころ行っていました。かなり厳しい時期もあり、営業マンが売れない用品をなんとか置かしてくれと無理に頼まれることもしばしばで、置いた商品もたびたびあったという。任天堂は色々な製品を次々と出しつづけうるトラハンドやウルトラマシンなどのヒット商品も生むことが出来、紆余曲折を経ながらも開発を続け、ゲーム機で大当たりして一気に世界の企業へと成長して行ったようだ。しかし、若木館長は言う、ゲーム機になり売れ筋の基幹商品は、それまで取り引きしていた小さなおもちゃ店は蚊帳の外に置かれたという。若木館長は「任天堂は人情が薄い」とぽつりとこぼした。つまり困ったときはお願いして、力が付くとそれまで育ててくれたおもちゃ店をないがしろにしたということだろう。任天堂の判断は利潤を追求していく企業としては当然の経営判断なのだろうが、これが日本のおもちゃ店というお店が消えていくきっかけのひとつになったのでは無いかと感じるのは私だけだろうか?

 

 令和元年6月26日荒川