ランポッケにあるアフンルパル跡の解説板

 

 

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あの世の入口

――いわゆる地獄穴について――

知里真志保

まえがき

 

 アイヌ語の地名を調べていると、海岸、または河岸の洞窟に、あの世へ行く道の入口だというものが意外に多い。それらの洞窟は、だいたい次のような名で呼ばれている。

(一)アふンパ※(小書き片仮名ル、1-6-92) Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-par(入る・口)。アふンパロ Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-paro(入る・その口)。――胆振いぶり地方で。

(二)アふンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92) Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-ru-par(入る・道・口)。アふンルパロ Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-ru-paro(入る・道・の口)。――胆振、日高ひだか国沙流さる、旭川市近文ちかぶみなどで。

(三)アふンルチャ※(小書き片仮名ル、1-6-92) Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-ru-char(入る・道・口)。アふンルチャロ Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-ru-charo(入る・道・の口)。――北海道北部地方で。

(四)アふンポール Ah※(アキュートアクセント付きU小文字)n-poru(入る・洞窟)。――日高国静内しずない地方で。

(五)オまンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92) Om※(アキュートアクセント付きA小文字)n-ru-par(奥へ行く・道・口)。オまンルパロ Om※(アキュートアクセント付きA小文字)n-ru-paro(奥へ行く・道・の口)。――胆振、日高などで。

(六)うぇンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92) W※(アキュートアクセント付きE小文字)n-ru-par(悪い・道・口)。うぇンルパロ W※(アキュートアクセント付きE小文字)n-ru-paro(悪い・道・の口)。――石狩国上川かみかわ地方で。

(七)オぽ※(小書き片仮名ク、1-6-78)ナル O-p※(アキュートアクセント付きO小文字)kna-ru(そこから・下方へ行く・道)。――北見国網走あばしり地方で。

(八)ぽールチャ※(小書き片仮名ル、1-6-92) P※(アキュートアクセント付きO小文字)ru-char(洞窟の・口)――日高国様似さまに地方で。

(九)ぽール P※(アキュートアクセント付きO小文字)ru(洞窟)。――北海道いっぱん。

(十)※[#半濁点付き平仮名と、139-8]ッソ T※(アキュートアクセント付きU小文字)sso(洞窟)。――樺太いっぱん。

(十一)ペしゅィ Pes※(アキュートアクセント付きU小文字)y(洞窟)。――北海道北見きたみ・釧路くしろ地方で。

 これらの中には、たんに洞窟の意にすぎないものもあるが、大体は名そのものがあの世へ行く道の入口であることを示しているものが多く、それにからんでいろいろと伝説や信仰が語り伝えられているのがふつうである。
 この種の洞窟は海岸や河岸の断崖にある横穴とふつうには考えられているようであるが、かならずしもそうではない。滝つぼがそれだというのもあり、海中の岩礁についている穴であることもある。さいきん調査した登別のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)は、高台の上に人為的に掘った竪穴であった。
 この種の洞窟が本来何であったかは、まだよく分らない。それらが古く祭儀――とくに海の――に関して用いられたものであろうということだけはほぼ察しがつくけれども、現実の宗教生活の中でそれがどのように用いられたものか、具体的なことは何ひとつ明らかにされていない。それを明らかにする鍵は、この種の洞窟をしらみつぶしに実地踏査することと、それらにまつわる伝承資料の蒐集検討の中にかくされているであろう。
 本稿は、この種の洞窟にまつわる伝承資料を先ず紹介し、あわせて登別のぼりべつのアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)の踏査の結果を報告しようとするものである。
 

 

一 あの世の入口に関する酋長談

 


 アイヌの散文物語の一種、酋長談ウエベケルとよばれるものの中によくアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)が出てくる。これは前に説明したように、あの世へ行く道の入口ということで、酋長談の中では海岸の洞窟か、山奥の河岸の洞窟とされている。そしてこの種の物語は、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)を通って生きながらあの世へ行って来た人の帰来談として語られるのがふつうである。われわれはそれを読むことによって、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)や、あの世のありさまや、人間の死などについてアイヌがどのような観念をもっていたかをつかむことができる。
 最初に胆振国いぶりこく幌別郡ほろべつぐん幌別村に伝承されていたものを紹介しよう。これは同地生れの金成マツ婆さんが伝えていたものである。
 

 

(1)あの世の入口に関する幌別の酋長談

 


 おれには父さん母さん大きい兄さん小さい兄さんがあった。おれは末っ子で、みんなに可愛がられ、何不自由なく暮らして、今はあちらこちら走り使いにやられるほど大きくなった。ところが、父さんも、母さんも、兄さんだちも、何の病気か、ほんの二、三日寝こんだかと思うと、ぽっくりと死んでしまって、おれはたちまち独りぼっちになってしまった。村の人々は独りぼっちのおれをなにくれとなく慰めてくれ、何かうまいものがあればいちばん先におれに届けてくれた。
 ところで、おれには叔父がひとりあって、村の上手かみてを支配していた。たいへんな長者だが、ひどく意地の悪い人で、おそろしい欲ばりだという評判だった。ただひとりの肉親の叔父だから、ときどきその家の戸口まで行ってみるのだが、ふり向いてくれようともしなかった。たいして近い親類でもない連中ですらあんなに親切に世話してくれているのだから、まして肉身の叔父とあれば、父さんや兄さんだちになりかわって、沖漁から山狩から舟掘り網つくり彫刻などについて、いろいろ教えてくれてもよさそうなものだが、何ひとつ教えてくれようともしなかった。
 その叔父が、ある日何と思ったか、にこにこしながらやって来て、おれを山狩りにさそった。叔父のことだからどうせろくな考えではあるまいと、心の中で神々に祈りながらついて行くと、ずっと山奥に大きな穴シュイがあった。叔父はあちこち見やって誰もいないのをたしかめると、おれに向ってこう言った――
「これ、わしのかわい甥よ、おまえこの穴から先に入ってみなさい。わしもすぐ追っかけて行くから……」
 後から追っかけて来るなんて、どうせうそにきまっていると思ったが、勇気をふるい起しておれは穴の中へ入って行った。穴はどこまでも長く続いていて、おれの行く手が明るくなると後が暗くなり、後が明るくなると行く手が暗くなる、という状態をくりかえしながら見て行くと、とつぜん思いもかけない美しい村に出た。
 見れば海はひろびろと凪ぎわたっている。沖には弁財船が岩礁のように浮んでいて、そこと岸辺の間を荷揚げの小舟が行ったり来たりしている。その岸辺にはおびただしい家数を持った村が展開していて、奥の家々は森の中にまぎれこみ、前の家々は海にまでせり出して来ている。村はずれに大きな川がしらじらと光っていて、何の魚であろうか、下方の群を川底の砂がこすり、上方の群を日光がこがしている。村へ入ろうとする所に大きな土饅頭、小さな土饅頭が重なりあうように列をなして並んでいる。そのそばに男の墓標女の墓標が林立している。奥の方から、若い男女が下りて来ておれのそばを通るのに、ちっともおれの方を見ない。あらぬ方ばかり見て通る。ときどき、おれがまだ小さい頃、村で見たことのある病死した男や女が通りかかるのだけれども、やはりおれの方を見ずに、あらぬ方ばかり見て通りすぎるのである。ただ犬だけは、おれに向って猛烈に吠える。するとその連中はふしぎそうな顔をする。
 海辺に黒々と人だかりがしているのでそこへ行って見ると、舟から荷物を揚げるのを大勢の人々が見物しているのであった。その連中のなかに、思いもかけず、父さんや母さんがいた。昔よりずっと若く元気でにこにこしながら荷揚げするのを見ている。誰ひとりおれの方を見るものがない。父さん、母さん[#「母さん」は底本では「母きん」]と言って飛びつきたいのをがまんして見ていると、いま着いたばかりの荷揚げ舟の中から、思いもかけぬ兄さんだちが、これまたすこぶる若く元気な様子で上って来た。おれのそばを通っても気づいた風もない。
 その間も犬どもは絶えずおれに吠えかけている。すると村の老人たちは戸口に出て来て、何かぶつぶつ言いながら灰をぱっぱっとそこらへまきちらす。おれはふしぎに思ってそれを見ていると、大きい兄さんがそばへ来て、あらぬ方を見ながら、こう言った――
「これ、上方の国カンナモシルから来た小さい弟よ、よく聞いてくれ。この村は下方の国ポクナモシルという所だ。上方の国で人が死ぬと、その肉体は墓穴の中に入れられ、そこで腐ってしまうけれども魂ラマッというものは死なずにこの下方の国へ来てこのように働きながらたのしく暮らしているのだ。しかし上方の国で神のとがめる悪行をした者は、男でも女でも死んでもこの下方の国で暮らすことができず、罰せられる場所へやられて罰せられ、ある者はカエル、ある者はマムシ、ある者はトカゲ、ある者は何か悪い鳥にされて、ふたたび上方の国へ出されるのだ。上方の国から生きたままこの下方の国へ来ると、下方の国の人々にはその体が見えない。ただ犬だけがぼんやりそれを見ることができるのだ。それで先ほどから誰もおまえを見ようとしなかったのである。婆さんたちが灰をまくのは、犬が吠えて眠れないからだ。上方の国で日が暮れると、下方の国では夜が明ける。上方の国で夜が明けると下方の国では日が暮れるのだ。おまえはここでほんの僅かの間見物しただけだと思うのだろうが、じつは十日以上も居るのだよ。われわれがこの神の国カムイコタンに来てからふりかえって見ると、父さんの弟であるあの叔父が、わが家に先祖代々伝わる家宝の金の玉六つの玉、銀の玉六つの玉に目をつけて、それが欲しいばかりに悪魔に願をかけて、われわれをのろい殺したのだった。そしておまえをも殺そうとねらっていたのだが、村の人々が神々に祈って目を離さないので、そのすきがない。そこでいろいろ考えたあげく、おまえを山狩にさそって、山の中のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)におまえをだまして入らせたのである。アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)という穴は下方の国へ入る道をそういうのである。(ahun-ru-par ari a-ye suy anakne pokna-sir un ahun ru ene a-ye-i ne ruwene)死なずに生きたままでこの下方の国へ来た者は、上方の国へ戻ったとしても、長くは生きない。二、三日して死ぬ者もあり、二、三ヶ月して死ぬ者もあり、一年たって死ぬ者もある。と先祖の言い伝えシンリッ・ウパシクマにあるのを知っているものだから、それでおまえをだましてここへよこしたのだ。そして自分は家へ帰って、おまえが帰って来るかどうか様子をうかがっていたのだが、村の人々はおまえが急にいなくなったので、叔父の所へおしかけて、
「村の中央のおれたちが奉仕している少年をどうした? 殺したのならその死体をどこへやった?」
と、今日で十日あまり、毎日休まずに責めたてている。最初はおまえが帰ってこないのを内心よろこんでいたのだが、今は勝手に家宝の金銀の玉を盗むこともならず、おまけに毎日毎日ひまなく責めたてられるので、ゆっくり食事することもできないありさまだ。おまえはもう、上方の国カンナモシリ生れ育った国ウレシバモシリにもどりなさい。生きながら下方の国へ来た者は、上方の国へ戻っても、運が悪くてすぐ死ぬことになってはいるけれども、誰か身がわりの者をよこせば、本人はかえって栄えて、人一倍長生きをするということになっている。おまえは上方の国へ帰ったらすぐ叔父の所へ行って、下の国の美しいこと楽しいことを話し、おれたちが待っているからと告げて、なんとか叔父をだまして下方の国へ来るようにしなさい」
 そこで、おれはふたたび犬どもに吠えられながらアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)の所へ来て、そこから前のようにおれの行く手が明るくなると背後が暗くなり、背後が明るくなると行く手が暗くなる、という状態をくりかえしながら、とうとう穴を走りぬけておれの村へ帰って来た。
 ――この話はまだだいぶ長く続く。これから、この少年が叔父の家へ行って、村の人々に責めたてられている叔父をだまして、自分の身代りにアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)からあの世へ送りだしてやり、その後で美しい女をめとって、亡き父の後をついでウラシペッ村の酋長になり、村と共に栄えて行くてんまつが、散文物語特有のだらだらとした調子で語られて行くのである。しかし本稿当面の目的はすでに達しられたので、この辺で打ちきることにする。
 次ぎに掲げるのは日高国ひだかこく沙流郡さるぐん平取村びらとりむら字荷菜になの平目ひらめカレピア婆さんが久保寺逸彦氏に伝えたもので、訳文も同氏の手になる。同氏によれば、これは胆振いぶりの有珠うすか虻田あぶたへんの人が、とある海岸の洞穴から下界の国へ迷いこんで帰ってから村人にいちぶしじゅうを物語る、いわば一種の実歴談イソイタクとして信じられているという。
 

 

 

 


 私はほんとうにえらい首領で、何不足ない暮らしをしていた。日本人の国へ交易にでかけた人たちがうまいもうけをするのを聞くたびに、ついうらやましくなって、おれもひとつでかけてみようかと、妻をかたらい、夫婦ふたりの相乗りで舟をこぎ、交易に行ったのだった。和人シサムの殿様のいる町に着いて、こちらから積んで行った交易品の熊の皮や鹿の皮を出すと、先方からは、たくさん宝物(漆器類や太刀など)、米や酒をくれて、舟もいっぱいになるほどだった。それからいよいよ帰途についたが、途中あちこちの海岸に舟をよせては、泊り泊りして帰ってきた。
 ある日、どことも知らない海岸のけわしい崖山の前に、小さい砂浜があって、ここなら舟を引きあげて泊れそうに見えたので、その夜はここで泊ることに決め、砂浜に舟を引きあげて、なぎさによせあがった木を拾い集めてきて、火をもやし、飯をたきながら、ふと沖の方を見ると、大変だ。ものすごい大津波がこちらをめがけておしよせて、いまにもかぶさってきそうに見えるではないか。どうしていいかわからないので、妻の手をとって、崖山の方へ逃げのぼっていくと、崖くずれのところがある。その間をどんどん逃げてくると、そこに大横穴が見える。ここよりほかには通れそうなところもないと思って、その穴へ入っていった。奥は深く続いている。だんだん行くうちに、はじめはまっ暗であったのに、行く手がぼんやり明るくなってきた。なお、どんどん足にまかせて行くと、やがて景色がとてもきれいなところへ出た。
 私たち夫婦はその景色に見とれながら行くと、道のそばには、人家のたくさん立ちならんだ村が見え、海岸には、いましも大きな弁財船(大形の和船)が港へ入ろうとしているところへ、村の人々が集ってくる。なお行くと、ある村のしもてに、他の家とは少しかけはなれて、一軒の家が立っていた。私たちは、その家の戸口に立って、おとないを知らせる咳払いをして待っていると、中から家の主婦らしい女が現われて、「早くおはいり」といったので、中に入った。
 この家の主人は、いかにもひとかどの首領らしいりっぱな男で、私たちに向ってていちょうに初対面のあいさつをした。そして私に「どうしてここへ来たか」とたずねるので、かくかくしかじかと、いままでのことを残らず話すと、家の主人はこういった。――
「やっぱり、おれたちもおまえたちのようにして、この国にやって来た者だ。ここは死人の来る国なのだ。この他界オヤモシルに来たら、決してここの食物を食べてはいけなかった。食べるともとの人間界へ帰れなくなるのに、おれたちは、つい、ここの食べ物を食ってしまったので、もう帰れなくなって、こうしているのだ。おまえたちも、この他界では食べ物は食ってはいけないよ。食わなければ、またもとの人間界へ帰れるのだから。おまえたちは腹がへっているかもしれないが、気の毒だが、おまえたちには何も食わせてやるわけにはいかない。この世界には、鹿でも熊でもたくさんいる。おれたちは、それをとって食べているのだ。この世界では、おまえたちの知っている死人たちもたくさん来て村をつくって住んでいる。生きている私たちやおまえたちには、あの人たちの姿は見えるが、向うでは、われわれの姿はちっとも見えないのだ。上の世界(人間界)では生前死者たちが心をとめて、毎日使っていた物はなんでも思い通りに、この下の世界へ持って来て、それを使って暮らしているのだ。だがおれたちのように肉体カイセイをもってこの世界に来た者は、他の人々(死者)といっしょに暮らすわけにはいかないから、こうして別居しているが、ふたたび人間界へ戻れないから、死ぬまでこのまま暮らすよりしかたがないだろう。汝たちは、ここから急いで帰ったがいい。おまえたちの泊ろうとした場所は、たぶん悪魔アルカミアシがすんでいるところだろうから、津波もこないのに、いまにも襲いかかるように見せたのだろう。おまえたちが帰って行けば、おまえたちの乗って来た船は、もとどおりに砂浜に引きあげられたままになっているだろう。それから、熊の皮、鹿の皮などおれがこしらえておいたものをみやげにやる。この熊の胆の乾し固めた束もあげるから、それを上の国へ持ち帰ってみやげとし、せめてこればかりをも、おれたちに会った証拠として話してもらいたい」
 おれたち夫婦は、熊の皮、鹿の皮、熊の胆の束をみやげにもらい、別れを告げて、ふたたびもと来た道をもどって来た。横穴の途中で、私たちの顔見知りの村の老爺が、袋カロブを背負って、向うから来てすれちがったが、私たちの姿が見えないのか、そのまま行ってしまった。どんどん進んで、穴の入口近く来ると、また一人の老人が袋を背に通りすぎたが、やっぱりこちらの姿は見えぬらしい。穴を出て、もとの砂浜へ来ると、私たちの船はそのままにおかれてあった。それに乗って船出し、また何日もかかって故郷の村へ帰った。村の人たちに、私たちが地下の国で見て来た、いちぶしじゅうを話した。私たちが帰途、穴の中で会ったのは、村のふたりの老人たちの魂ラマチで、いずれも葬式をしてまだあまり日がたたないのだということを知って驚いた。
 しばらくして、ある日、会所かいしょ(蝦夷との交易に当った役所)へ出かけて行って、あの世からもらって来た熊の胆や熊の皮などをみやげにして、たくさんおかねをもらって来た。
 さて、私たちが下界で会ったあの夫婦は、ほんとうは肉体を持って生きている人たちだから、ふつうの死者のような祖霊祭シヌラッパもできず、どうして供養してやっていいかも分らないが、あんまり可哀想なので、せめてその話だけでも、こうして物語りして、慰めてやりたいと思うのだ。これからも、日本人の国へ交易にでかける人々よ、交易にでかけても、途中ではめったなことでは、舟からあがって、宿泊したりするでないぞ。

 

(久保寺逸彦「アイヌ昔話、死者の国」――雑誌『遺伝』1955年8月アイヌ族特集号)

 

 これらの物語の中では、次のような諸点がわれわれの注意をひく。
(1)あの世から来た幽霊の姿がわれわれの目には見えぬように、この世から生きながらあの世に行った人の姿はあの世の人々の目には見えない。
(2)ただし犬だけは、この世の犬があの世から来た幽霊の姿を見ることができるように、あの世の犬もこの世から生身を持って行った人々の姿を見ることができる。そういうように人の目には見えぬ者の姿を見て犬が吠えるのをあの世でも「くレミ※(小書き片仮名ク、1-6-78)」(k※(アキュートアクセント付きU小文字)r-e-mik 幽霊・に・吠える)と云っている。つまりこの世では肉体のないのが幽霊だが、あの世では[#「あの世では」は底本では「この世では」]肉体のあるのが幽霊で、まったくあべこべである。
(3)この世とあの世とでは夜と昼が[#「夜と昼が」は底本では「夜の昼が」]あべこべである。
(4)この世とあの世とでは時間の経過の尺度がちがう。あの世で数時間すごしたばかりだと思ったのが、この世へ帰って来てみると十数日も経過している。
(5)あの世の物を食ったら、もはやこの世へ帰って来られない。いわゆる「よもつへぐい」の思想である。
(6)あの世から帰って来た者はまたすぐに死ぬ。長くて一年。ただし誰かを身代りにやれば、その人は逆に長く生き栄える。
(7)あの世は地下にあるので、「ぽ※(小書き片仮名ク、1-6-78)ナモシ※(小書き片仮名ル、1-6-92)」p※(アキュートアクセント付きO小文字)kna-mosir(下方の国)と呼ばれ、また「カむィコタン」Kam※(アキュートアクセント付きU小文字)y-kotan(神の国)とも呼ばれる。そこは善人の魂の安住するたのしい世界である。従ってわれわれが問題にしているような洞窟、すなわちあの世への入口を地獄穴と訳すのは正しい訳とは云いかねる。むしろ極楽ごくらく穴である。

 

 

二 あの世の入口に関する各地の伝説

 

中略〜

三 登別のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)について

 国道の工事で2/3は削られてしまった

 


 室蘭本線登別駅の附近にあるアヨロ、ポンアヨロの岡、フンベ山、蘭法華ランボッケの丘陵等の、海を臨む高い崖の上や下には、アイヌ時代の数多い神話、伝説や地名が残されている。昭和30年9月25日、知里真志保、山田秀三、水落昭夫、知里アサ、萩中美枝の一行は、登別で生れて登別で育ち、附近の地理に詳しい知里高吉翁の案内のもとに、これらの土地の実地調査を行ったが、その際訪れた蘭法華の丘の上のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)と呼ばれている遺跡は、その形態がすこぶる稀らしく、今後の研究に重要な意味をもつものがあると思われたので、その後も数回にわたり実地測図を行った。以下はその記録である。
 

 

(1)アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)の所在と環境

アフンルパルへは踏み分け道を歩いてゆく

この途中の海の景色がいい

 

 登別駅から幌別本町、室蘭の方面に行く鉄道は駅を出て先ず登別川を渡り、間もなくトンネルを抜けて富浦、幌別本町方面の海浜に出る。此のトンネルの上が俗に蘭法華の高台とよばれる所で、アイヌ時代の古名はリフ※(小書き片仮名ル、1-6-92)カ R※(アキュートアクセント付きI)-hur-ka(高い・岡・〔の〕上)である。長い尾根が断崖となって海につき出したいわゆる蘭法華岬(原名 R※(アキュートアクセント付きA小文字)mpok-etu)の上の所で、海を眺める風景の美しさは、古く東蝦夷日誌や蝦夷行程記などの中でも特記された場所である。
 この岡の東尾根の上は「ハしナウシ」Has※(アキュートアクセント付きI小文字)nausi(< hasinaw-us-i 枝幣・群在する・所)と呼ばれていて、知里翁の若い頃は、まだ二ヶ所に幣場があったということであり、この岡が古く海神の祭場であったことを物語っている。この幣場のすぐ上が広場で、おそらくそれが古くはカムィミンタ※(小書き片仮名ル、1-6-92)(Kam※(アキュートアクセント付きU小文字)y-mintar 神・庭)だったのであろう。この岡の上は昔から神聖視されたところで、そこにはえらい神(黒狐と言われる)がいて、災害の予告をしたり、時化しけの来襲を告げたりしたという。また、むかし大津浪があって世界じゅうが水の下になったときこの岡の上にお膳オッチケの広さだけ水の漬かぬ場所があって、そのおかげで人間が種ぎれにならずにすんだという云い伝えもある。
 われわれが問題にしているアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)は、このハシナウシから岡の上の平坦地を西に横ぎり、西側の富浦とみうら部落――旧名蘭法華、アイヌ語の原名「らンポ※(小書き片仮名ク、1-6-78)」R※(アキュートアクセント付きA小文字)mpok(< ran-pok 坂・下)、或は「らンポッケ」R※(アキュートアクセント付きA小文字)m-pokke(ran-pok-ke 坂・下・の所)――を見下す断崖に近い所にある。古くから丘越しに使われた旧道は、富浦から鉄道の蘭法華トンネルの近くで山にかかり、通称七曲ななまがりと言う急坂を登って丘上に出て、東に台地を通り登別川に降って居る。旧記に天下の絶景と書かれたのは此の道のことである。その七曲りの坂を登りつめた所から、僅かに道を北にそれた畑の中にこのアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)があった。そこは昔から近づいてはいけない場所であった。附近にはよいエゾニュウがたくさん生えていたが、此処だけは取りに行かないことになっていた。また近くの大きな樹によく鷲が来てとまっていたが、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)のそばだからといって取らなかった(知里高吉翁)。また、此処は地獄極楽へ行く穴だから子供達は行ってのぞいてはいけないと言われていた。夜になると、亡者が此処から出て来て、昆布コンブや海胆ニノなどの磯のものを取り、戻って行ったとのことであった(幌別本町の板久孫吉老)
 現地で、知里翁から、此処がアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)と呼ばれていた処だと示された場所は、意外にも洞穴ではなくて、平らな畑地の中にある大きな凹地であった。その凹地の中には雑草や雑木が周囲の平地と同じ位の高さにまで生い繁っていたが、分け入って見ると意外に深い。底まで降りて行くと小さな平坦地があった。大体楕円形である。底から東の方へ、また草や木を分けて登って行くと、何段かの段々になっていることが分った。想像もしていなかった形態のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)である。
 何分にも雑草や木に被われているので、判然と形をつかまえることが困難であるので、山田の働いて居る北海道曹達会社幌別工場の有志の手を借り後に正確に調査をすることにして、第一回は引揚げることにした。なお、知里翁がワッカオイ W※(アキュートアクセント付きA小文字)kka-o-i(水・たまっている・所)が近くにあると言われるので行って見た。場所はアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)から旧道を横切り二百歩余東南に行った至近距離で、其処は丘上で沢形になった地形で、下るとごく小さな泉が湧いており、水は細流になって流れ出している。此の水はトンネルの上の辺りで地面に浸み込んでなくなっているとのことである。またその東の沢形の処に「わカタウシ」W※(アキュートアクセント付きA小文字)katausi(< wakka-ta-us-i 水を・汲み・つけている・所)の地名もあるとのことであった。
 

 

(2)アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)の実測見取図

 

 アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)およびワッカオイの地番は幌別郡幌別町字登別町124番地である。附近は丘陵上の一帯の平地であるが、此の凹地の北側は一個所だけ少し低くなっている。実測図の南北よりの断面で、深さが浅く出ているのは、その北側のグラウンド・レベルから測った為である。しかしながら現地を見ると、沢形の処に単純に加工したものではなく、純然たる人造の凹地であるように見える。知里翁を通じて地主に了解を得てから、先ず生い繁った雑樹雑草を刈り取って運び出すところから仕事を始めた。数回に及ぶ測量の参加者は北海道曹達会社の有志で次の人々であった。
 ――山田秀三、国分恒次、水落昭夫、吉田靖彦、西島治、柏木恵一、金子勇、鈴木昭英、板谷柳太郎、江藤健次、加藤定子。

 雑草を全部取片付けて見ると楕円形の摺鉢形の凹地であることが判明した。東西に長く、南北は短い。東端――詳しい測量の結果では東より南に約31度ふれている――は少しすぼんでいて、見方によれば卵形にも見られる。その詳細は※(ローマ数字1、1-13-21)乃至※(ローマ数字2、1-13-22)の見取図に記入したが、大体の形は次の通りである。
 上縁長 径約30米
 短径  約22米
 底部長 径大約10米(測り方で13米ともなり9米とも見える)
 短径  約6米
 深さ  約4米余
 周囲の斜面には、奇異な階段がぐるぐると廻っている。ところどころ崩れていて、或は2段が1段に化した処もあるようであるが、大体のところは段から段への高さは50乃至70糎位で、処により7段、処により6段で、崩れたらしい処では2段が1段になっている。底部の東端からその段に自然に上って行けるような形で伝わって行くと段々上へ上って行くことになるらしい。(ただし途中ところどころ崩れているので正確には分らない。)
 底部は大体平らであるが、東西の長い方向で見ると、その中央の辺がほぼ円形に低くなっていて、その中に直径1乃至0.7米の孔が半円形に並んでいる。孔は円い形でほぼ円筒形の浅いものであるが、周壁は案外崩れていない。もう一つか二つかあるとこれも大体円形になる処だが、それらしいものは見当らなかった。何か柱孔らしくも見える。なお、もう一つの孔がその一群から離れて、斜面に近い少し高い所にあった。(この孔は知里のその後の調査によって、数年前登別小学校教師某君が何か出やしないかと思って生徒を連れて行って掘ったものであることが分った。遺物は何も出なかったそうである。)
 この形の遺跡が従来他にあることを見聞していないので、すこぶる奇異な感に打たれた。他でいわゆる地獄穴とされているものは、すでに見た通り、ほとんど全部が海岸或は河岸の崖にある自然の洞窟で、ほとんどが横穴であるのに対して、これは明らかに人工と見られる竪穴である。また、その螺旋形らしい階段の意味についても、今後の研究にまつほかない。ただし、附近に散在している遺跡や、その名称や、それに附随して語り伝えられている伝説や信仰などを考えあわせると、或はこれは俗人の近づくのを許さなかった祭祀関係の遺跡だったのではなかろうかとも考えられる。
 なお、この高台を下りて幌別本町の方へ半里ほど行ったところ――今の山下氏のいる場所の向う――にも、アフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)があると昔から云い伝えられていた。故知里イシュレ※(小書き片仮名ク、1-6-78)翁がこの辺に山菜をとりに行ったついでに探してみたが分らなかったという。翁はそれを常識通り洞窟ポールだと思っていたようであるが、これも蘭法華高台のアフンルパ※(小書き片仮名ル、1-6-92)と同じく平地に掘った竪穴だったらしい。そこは今は畑になっているが、畑の持主がその穴を邪魔にして、畑から出る塵芥を集めて来てはその中へ投げ投げしてとうとう埋めてしまったが、それもまだそこの所だけもとの穴の形に少し凹んでいるという。(昭和30年2月20日、登別中学校、土橋弦氏より知里聞書。同氏は父君からそれを聞いたという。)
 なお、此処の中に生えて居た樹木は若く、太いのでもステッキ程度であって、全部草刈鎌で切り取ることのできるていどであった。また、階段も処々崩れていたが大体においてその形を残している。土につけた段が、たとえ雑草に覆われていたにしろ、此の程度に形を残していることから考えても、比較的に近い時代まで使用に供されていたものではなかろうか。ただし今回雑草木を刈り、全貌を露したについては、今後心なき発掘や遊戯のため、また風雨に冒されて貴重な古文化財の損壊することを心から恐れている。今回の数次にわたる測量に際しては、損壊を恐れて敢て発掘的な作業を行わず、単に形状の見取りに止めて、すべてを後に行わるべき学術的調査研究に残すことにした。
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 見取図には便宜上方角を明らかにする為にAA’、BB’等の符号を附した。A―A’は凹地の最長の方向の所につけた。またC―C’は最短の方向で、A―A’と直角をなしている。B―B’およびD―D’は各々それと45度をなす方向の意味である。
 また階段は土の切取りであるので、傾斜面があり、機械的に垂直、水平になっていない。その大きさを計算するために、各段の根元から根元までの垂直、水平距離を測り記入した。どの段も歩行することのできる巾であるが、その巾と、見取図に掲げた巾とは、傾斜面だけの巾の差があるので一致しない。〈共著者山田秀三〉

〈『北方文化研究報告』第十一輯 昭和31年3月〉