黒澤友義さんに聞く鷲別の話 について知っていることをぜひ教えてください

 鷲別地区のことは何でも知っている方で、まさしく鷲別地区の生き字引である黒澤友義さんは大正14年7月9日生まれの92歳。いつもニコニコしていて元気で、昔の話や魚拓の話など、若者の様に嬉々としてお話してくれる素敵なおじいさんです。私も鷲別地区に長らく住んでいたので昔から黒澤さんのことは知っていました。鷲別川のそばにかつて黒澤商店(のちにセイコマート)や黒澤釣具店を経営していて、商売や、つりの達人だった。

 平成3~4年ごろだろうか「幌別川を育てる会」で御一緒させていただいて懇意に成り、今では友人のようにお話ができる間柄である。また、私の現在住んでいる幌別鉱山の川原で「渓流祭り」というのを10年ほど行っていて祭りの実行メンバーとしても活躍していただいた方だ。

 今年は黒澤さんに鷲別でかつて栄えた砂鉄採掘のことなどを聞きに3回ほど伺ったが、砂鉄のことはあまり御存知無い様で、その代わり鷲別地区の昔話に花が咲き、実りある聞き取りを行うことができた。

 鷲別にかって追分があり、絵鞆半島へ行く道と元室蘭へ行く道の別れが今のパロマ付近にあったという。追分はパロマ付近から現在の線路を斜めに平成斎場付近~自動車学校へと伸びていたという。なぜその辺の事情を知っているかというと黒澤家は明治3年に片倉主従として北海道に移住してからまもなく奥様たちが追分に宿屋を経営していたからだそういだ。さらに。これが3軒並んでいたことから「3軒茶屋」と呼ばれていて、なぜ女性が経営したかというと男性は武士であり武士が商人のまねごとをするのはけしからないということだったらしい。この「3件茶屋」も明治6年に札幌本道が完成すると人の流れが変わり、追分の地の利が薄くなり鷲別川沿いに移ったらしいということなど黒澤さんは祖父にあたる黒澤清之進さんから聞いたということだ(平成30年3月19日聞き取り)。