陰の澤開拓記念碑を見つけた について知っていることをぜひ教えてください

 平成31年3月3日午後1時ごろ、陰の澤開拓記念碑をとうとう見つけた。この石碑を見つけるまであしかけ3年の月日が経過した。この開拓地は戦後、新日鉄の退職者が7家族で移住してきたことにより拓かれた場所となった。よくぞ水も出ないこんな高台に来て開墾を行ったものだと、しみじみ開拓の苦労が感じられる。その後、開墾や生活に適さなかつたのか、ここで長く暮らした人はいないようで、すぐに無人地帯となり笹が生い茂り人を寄せ付けない場所となって久しい。

 ここに住まわれた人の一人であり柏木町に住む南部さんは子供のころここで生活していたらしく、一度石碑を見てみたいとおっしゃっていた。さらに市史編纂室でもここの石碑は近年誰も確認しておらずほとんど幻の石碑のような存在になっていた。私はそんなお話を聞いて探してみようと思い立ったのが3年前だ。

 平成31年3月3日午前10時半に安平町の多(おおの)さんと2人で石碑の探索を開始した。数日前から早朝や午前中は堅雪になっているので長靴やかんじきで行くには最高の状態となっていたのでかんじきを持参したが、10時半スタートでもまだ堅雪の状態だったので林道から222mピークまで長靴でスイスイ行くことができたのは耐力も時間も消耗せず何よりの幸いだった。222mピーク付近へは11時過ぎに到着し、南部さんの地図や国土地理院の地形図を見るとやや小さな谷地形の場所が昔の道路となっていたようなのでひとつめの谷を降りていった。そして道々付近から崖を上る九十九折コースの延長あたりまで下りてみたが石碑の気配はまったくなかったので、このあと二手に分かれて。おおのさんとは下流へ、私がもうひとつの小さな谷を目指して上へ移動した。谷の右岸を注意して探したが、尾根近くまできたのに見つけることができず、私は林道へと戻ってみた。おおのさんは下流には何もなかったようで、そのころには私を追いかけて沢を登ってきていた。私はおおのさんが視界にはいったので「そのあたりは平らな地形なのであやしい」と伝えて、おおのさんの居る辺りへ下り始めた。するとまもなくおおのさんの大声がした「石碑があった~」「石碑があった~」「石碑があった~」と5,6度叫びだした。私もあわてて声のほうへ向かうと探していた石碑が笹原の真ん中にぽつんと立って鎮座していた。「石碑のほうへ行ってください~」とのおおのさんの声に促されて、石碑のあたりに行くとなんと石碑の材質は登別軟石では無いかと2重に驚き、かつ、うれしかった。おおのさんは私が石碑と対面するや否や写真を撮影してくれて、その後お互いに石碑の前で写真を撮りあい。発見を祝うことが出来た。

 上空を見ると猛禽類が頭上を飛んでいた。我々の発見を祝うかのように、ちょうど石碑の真上を回転しているではないか。おおのさんが「オオワシだ」と叫んだ。先ほどこの台地でオジロワシを見たばかりだったが、鳥にも祝福されているのかもしれない。

 発見された位置は林道から50mも離れているかどうかというくらい身近にあった。GPSに位置情報を落として岐路に着いたがなんともうれしい一日となった。

 陰の澤のがけ上には本日をあわせてこれまでの10年で8回ほど登った。そしてやっとめぐり合えた。