蘭法華村に駅を置いた理由
1896年(明治29年)当時の地図(http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1357249)に初期の登別駅の位置が記されています。当時の軌道は、アヨロからランポッケの間、フンベ山の北側を通りほぼ直線であったようです。このページの地図は当時の駅の位置と線路の位置を示しています。鉄道の駅は登別川の氾濫原を避け、岩盤の安定したランポッケの麓を利用した可能性があります。
一方で、この界隈の人口や経済、政治の集積地は幌別です。松前藩が幌別場所を置き、明治以降も片倉の入植が鷲別から始まっていて、胆振国の中心的な郡となります。また、札幌本道の起点である室蘭のトキカラモイから、最初の駅逓所が置かれたのは幌別でした。さらに、平野が広く、幌別川の作った後背地は登別川の氾濫原に比べると広く、開拓の余地がたくさんあったと思われます。現在の市役所も幌別地区にあります。
その東隣、山勝ちな蘭法華村に駅を置いた理由については引き続き調査が必要です。ご存知の方はご指導、ご記入ください。駅と駅の間隔が、現在の登別駅と虎杖浜駅の間隔が狭くなっていますので、距離を見て幌別よりで地盤の安定している蘭法華の麓が選ばれた可能性があるやもしれません。
現在のフンベ山の北、登別村に駅が置かれた理由
フンベ山の北側は、フンベ山の影響で土砂の堆積が比較的早い機会に起きたと考えます。フンベ山の東側は、現在、登別漁港になっています。この漁港はかつての沼地で、フシコペッの河口に位置し、現在も漁港にフシコベツ川が注いでいます。
フンベ山の北側に土砂が堆積する以前はフシコペッの位置を、登別川の本流が流れていた可能性があります。アイヌ語で「古い川」を指すフシコペッという名前が付いているということは、アイヌ文化が確立した、13世紀から、幕末までの間に流れを変えた可能性があると言えるかもしれません。
登別川は、氾濫原全体の移動を終え、フンベ山の西側から、ラッポッケ岬の間を移動するようになり、現在の姿になった可能性があります。1896年(明治29年)の鉄道敷設の数年前から、フンベ山北側で採石をしていたとう記述が登別市史に残っていますので、夕張などで使われた石の積出は、このフンベ山の北側で採石されたものが、室蘭本線を通じて、夕張に運ばれたと考えられます。
同じ気候条件で、水害にあったランポッケの海岸から、水害にあわなかったこと、地盤の安定、すでに石の積み込みで使われていたと言う幾つかの条件で必然だった可能性があります。当時、新設される駅の周辺には石の切り出しの労務者などの住居の集積はすでにあったと考えられす。
登別駅の位置