妙安寺(みょうあんじ)、了勝山は、かつて板橋にあった日蓮宗寺院。本尊は三宝の諸尊。開山は中老・日源(正和4年・1315)。中興開基は本受院・日東(没年不明)。江戸時代には京都・本圀寺の末寺だった。(1)

『相模太夫の旅録=Tabi Log』によると、『皇国地誌』残稿の板橋村の項にも記載があるが、2017年現在は二宮町二宮にあるとのこと(3)

境内

近衛家墳

境内に近衛家の墳墓が3基あった(1)

  • 法真院殿准三宮尊義、永正二年(1505)六月十九日(1)
    • 『諸家知譜拙記』に「(近衛関白)政家、後法興院と号す、(文明十一年(1479)関白、)長享二(年、1488)太政大臣准三后、永正二(年、1505)六(月)十九(日)薨、(年)六十」とあり(1)(2)、『風土記稿』は、「法真」は「(後)法興」の誤りだろう、としている(1)
  • 後法成寺殿准三宮尊義、天文十三年(1544)八月廿六日(1)
    • 同書に「(近衛関白)尚通(は、政家の子)、後法成寺と号す、(明応二(1493)関白、永正十一年(1514)太政大臣、)同(永正)十六年(1519)准三后、天文十三(年、1544)八(月)廿六(日)薨、七十三」とある(1)(2)
  • 勝光院殿妙安尊尼、天文二十三年(1554)七月廿四日(1)
    • 寺伝によると、近衛殿の簾中(夫人)で、北条氏政の内室(妻)の母とのこと。晩年に小田原へ下向して死去したとされていた。『風土記稿』は、もしそうだとすると、前記の2基の墳墓は、氏政の室の父祖などで、遙拝のために建てた、ということになるが、氏政の室が近衛家の連枝(きょうだい)ということは他に所見が無いので、寺伝は疑わしい、としている。

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 土橋定代(撰)速水房常(補訂)『改正増補諸家知譜拙記』国立公文書館内閣文庫本 請求番号:特040-0001、延享2年(1745)、明和2年(1765)増補、第1冊 コマ16
  3. 相模太夫「京本國寺の末寺「了勝山妙安寺」」『相模太夫の旅録=Tabi Log』2017年1月12日