辻村 伊助(つじむら いすけ、1886年 - 1923年)は、浜町辻村家出身の登山家園芸研究家開成中学校から第一高等学校東京帝国大学農科大学へ進学。一高在学中に日本山岳会に入会し、1906年から1912年にかけて日本アルプスなど国内各地で登山。大学卒業後、1913年に園芸の研究とアルプス登山のため渡欧し、1914年1月にユングフラウ・メョンヒ登頂に成功。同年8月、シュレックホルン登山中に雪崩に遭って負傷し、入院。入院先の病院の看護婦だったローザ・カレンと結婚した。同年秋に日本に帰国し、以後は兄・常助辻村農園の経営の傍ら、ヨーロッパ原産の高山植物の栽培・研究を行い、講演活動や執筆活動を行った。著書『スウィス日記』『ハイランド』は日本の山岳文学の先駆として知られる(1:30-31)。1923年9月の関東大震災のとき、「辻村高山園」を開いていた箱根湯本の自宅が土砂崩れで埋没し、一家5人が災害死した。享年37。

経歴

生い立ち

1886年(明治19)4月22日に、小田原町壱丁田(浜町)の辻村総本家5代目の父・甚八(真助)と母・ウタ(歌子)の二男として生まれる(1:22)

1893年(明治26)7月、7歳のときに父・甚八が死去(1:17,18)。兄・常助と共に、横浜の伯父の家から小学校へ通い、卒業後、東京の私立開成中学校へ通った(1:22)

兄・常助は中学卒業後、家を継ぐため小田原へ戻ったが、伊助は第一高等学校東京帝国大学農科大学農芸化学科へ進学した(1:22)

アルプス登頂

第一高等学校在学中に日本山岳会に入会し、1906年(明治39)から1912年(明治45)にかけて、日本アルプスを中心に、日本国内各地の山に登った(1:22-23)

1912年(明治45)3月に大学を卒業(1:23)久野の山林の一部を売却して費用を捻出し、翌1913年(大正2)10月に、園芸の研究とヨーロッパ・アルプス登山のため渡欧した(1:23)。敦賀からシベリア経由で11-12月にドイツ・オランダに滞在し、12月にイギリスを訪問(1:23-24)。翌1914年(大正3)1月にリヨンからジュネーブに入り、同月25日にユングフラウ(Jungfrau、標高4,167m)、26日にメョンヒ(Mönch、4,105m)に登頂した(1:24)。下山後、イタリア・ドイツの各地を旅行し、同年5-6月にイギリスを旅行(1:25,27)。7月下旬にスイス入りし、近藤茂吉らと4人でグロース・シュレックホルン(グロース・フィッシャーホルン Grosses Fiescherhorn、4,049mか、シュレックホルン Schreckhorn、4,078m)登頂を目指すが、8月1日に雪崩に遭遇して負傷し下山、山麓のインターラーケン(Interlaken)の病院(Bezirge-Spital)に入院した(1:27)

1914年(大正3)10月に、入院していた病院の看護婦だったローザ・カレン(Rosa Kallen)と結婚(1:28-29)第1次世界大戦の戦禍が拡大してきたこともあって日本へ帰国することになり、スイスを出てイタリアから香取丸に乗船し、晩秋に横浜に到着した(1:29)。1915年(大正4)に東京築地精養軒で結婚披露宴を催した(1:29)

帰国後

帰国後は、兄・常助とともに小田原で辻村農園の経営をしながら、ヨーロッパ原産の高山植物の栽培と研究を行った(1:29)。また登山の講演会や幻灯会(スライド上映会)に出席し、執筆活動を行った(1:29)

1920年(大正9)、ヨーロッパの高山植物の栽培と、妻・ローザの健康上の理由のため、箱根湯本(湯本386番地)の旧道沿いに1.65ha(約5千坪)の土地を購入(1:31,43)

同年春に一家でスイスへ向かい、夏にブルームアルプ諸峰、ワイルドストラウベル Wildstrubel、バルムホルン Balmhornなどに登山した(1:31)

1921年(大正10)5月、日本に帰国し、湯本の所有地に木造平屋建の洋風住宅を建て、1家で暮らした(1:31,43)。敷地内にロック・ガーデンを造り、庭内にドイツトウヒヒマラヤスギなどの多くの樹木を植えた(1:43)。また敷地のうち約1千坪を「辻村高山園」として開園した(1:31)

同年頃から、小田原高等女学校で英語の教師をしていた(1:45)

震災

1923年(大正12)9月1日、関東大震災の揺れにより自宅南側の斜面で土砂崩れが発生し、家屋と1家5人(夫妻と子供3人)が埋没(1:31-32)。小田原から母・歌子や兄・常助が来て捜索したが、行方不明だった(1:31)。少し離れた場所から女中の遺体と日記などの遺品が見つかった(1:31)

1926年(大正15)6月27日、同月1日から行われていた箱根旧道の復旧工事の際に、1家5人の遺体が発見された(1:31)。遺骨は後に比叡山延暦寺に納められたが、墓標類を建てないようにとの遺言があったため、墓は造られなかった(1:31,33)。代わりに友人・那須皓の世話で高田博厚の製作によりレリーフ記念碑と胸像が造られたが、太平洋戦争中に失われた(1:33)

著作物

  • 1915-1916(大正4-5)「スウィス日記」雑誌『山岳』連載
  • 1919(大正8)「ハイランド」雑誌『山岳』連載
  • 1922(大正11)「ベルネル・オーバルランド」雑誌『科学知識』掲載
  • 1923(大正12、遺稿)「続スウィス日記」
  • その他に紀行、論説、随想など6編がある(1:30)

リンク

参考資料

  1. 松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
  2. 小田原市郷土文化館「25 辻村甚八墓」『小田原の金石文 (2)』小田原市郷土文化館研究誌No.4、1968、18頁

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