白糸川の釈迦堂釈迦堂(しゃかどう)は、根府川の、白糸川南岸の白糸川橋梁の下あたり、万治年間(1658-1661)以前に岩泉寺の旧境内があった場所にある同寺のお堂(2)

釈迦堂の堂内にある縁起の写しによると、お堂は万治年間に岩泉寺が寺地を移したとき、既に建立されてあったようだが、『風土記稿』には記載がない。同書にある地蔵堂が2022年現在の釈迦堂のことのようでもあるが、詳細は不明。(4)

縁起

釈迦堂への参道、白糸川に架かる橋堂内に掲示のある、内田一正(記)「白糸川の釈迦如来」の写し(適宜改行した):

根府川の旧家・広井家の古文書によると広井家22世広井長十郎重友の代に頻発地震多く、特に寛永9年(1632)1月21日と正保4年(1647)9月14日と慶安元年(1648)4月22日の地震は、死者、民家の倒壊多く津波も襲来する等で世相は不安にみちて居り、長十郎重友は、村内世相の安泰のため岩泉寺境内の岩磐に釈迦尊像を像立して世相の安泰を祈ったとあります。

お姿の右側に『寛文九〔丙申〕歳(寛文9・1669・己酉)七月十二日、元喜道祐庵主』と刻まれて居ります。これは像立した長十郎重友の命日と戒名ですから、後日刻んで像立者の冥福を祈願したものと思われます。その左に『普明歴ニ〔己酉〕歳(明暦2・1656・丙申)仲秋月』と其の左に『広井宗左衛門敬』と刻まれて居ります。宗左衛門は長十郎重友後改め宗左衛門と広井家の系図にありますので、22世広井長十郎重友、改め宗左衛門が、台座に刻まれて居る『大工権助策』『石匠寅佐代』によって明歴2年(1656年)に像立したものと思われます。

後に万治2年(1659年)の大洪水で岩泉寺は現在の高台に引移ったがお釈迦さまは岩磐に刻まれて居りますので引移す事が出来ないので現在の所に残りました。

大正12年9月1日(1923年)関東大震災が起りまして関東一円は有史以来の大惨事となりました。お釈迦さまは上の鉄橋が落ち其の上に山津波の土砂で埋没してしまいました。お釈迦さまは目の高さより上に拝むように刻まれて居ったのですが、土砂に埋ったので現在の洞の中のお釈迦さまとなったのです。

お釈迦さまは長い歴史の移り変りの中で言い伝えによれば、弘法大師の作とも言われ此の地方の信仰のより所としてまいりました。特にお釈迦さまを掘った人々が、落ちた鉄橋と土砂の中から指一本損じないお姿を見て、如来の、あらたかさを驚嘆したとのことで、如来信者も多く、村内始め県西地方の人々の信仰厚く4月8日のお釈迦さまの誕生日には善男善女の参詣者多くにぎあいます。

花まつり

2021年4月8日の花まつりでは、地元の有志が花を持ち寄ってお堂を飾り付け、地元の柑橘類の販売や、甘茶の振る舞いなどが行われた(1)

寺紋

寺紋は梅鉢(3)

リンク

参考資料

  1. 甘露の雨に地域集う 根府川 岩泉寺で花まつりタウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2017年4月15日
  2. 蒲田文雄「小田原市根府川 --- 山津波と殃死者供養塔 ---」『テーマ:地形地質、地震防災、災害など』最終更新 2021年7月30日
  3. 2022年調査
  4. 風土記稿