与一塚(よいちづか)は、石橋の佐奈田霊社の近くにある、治承4年(1180)の石橋山の合戦のとき討死した佐奈田与一義忠の墳墓。
『風土記稿』のとき、石橋の南、熱海道から石段42段を上がった丘の上に周囲が1丈8尺(約5.4m)、樹高6丈(約18.2m)の杉の古木があり、これを「与一塚」と呼んでいた。(1)
2022年現在、この杉の古木は枯死しているとみられ、残された木の根本部分にしめ縄が張られている(2)。
与一塚と文三堂は、1954年(昭和29)3月30日に県の史跡に指定されている(4)(5)。
石碑
『風土記稿』には、杉の木の前に高さ6尺(約182cm)、幅2尺(約61cm)の石碑があり、「佐奈田与一義忠墓、治承四庚子年(1180)八月廿三日夜」と題してあった。これは、稲葉美濃守正則の家臣・田辺権太夫信吉が建立したものだった。碑の上には覆屋が設けてあった、とある(1)。
石橋山弔古の詩
僧・義堂(周信)の『空華集』に、石橋山弔古の詩がある(1)。その写し(1):
石橋夜戦事茫々、 余一豊三墓木荒、 臥澗枯杉苔半合、 誰知覇主此中蔵、
忌日
『風土記稿』の頃は、毎年8月23日に集団で参詣する人が多く、参拝する際には松明を点して墳墓の前に手向けることが恒例になっていた(1)。
参考資料
- 『風土記稿』
- 2022年調査
- 「佐奈田霊社 行事予定」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
- 神奈川県教育委員会教育局生涯学習部文化遺産課「神奈川県 文化財目録(令和3年5月1日現在)」令和3年(2021)5月、p.71
- 小田原市文化部文化財課「史跡 ・石橋山古戦場のうち与一塚及び文三堂 2箇所」市公式サイト、2022年6月20日