丹波屋敷跡(たんばやしきあと)は、久野の南方(1)、字北側下の京福寺の西方(2)にあったとされる某丹波守の屋敷跡。

『風土記稿』のとき(19世紀前半)には陸田になっていた。寛文12年(1672)の久野村の記録に「丹波屋敷、東西52間(約94m)、南北25間(約45m)」とあって、姓氏は不明だった。(1)

『皇国地誌久野村誌』のとき(1885・明治18年以前)には、小さな塚があり、傍らに1本のシバの樹があったという(2)

『風土記稿』は、後北条氏の家臣だった遠山丹波守などか、あるいは稲葉氏が小田原藩主だった時代の家人などか、と推測している。(1)

『皇国地誌久野村誌』は、丹波守の墳墓は京福寺にあり、北条幻庵の家臣だったといわれている、としている。また同書の京福寺の項に、京福寺には「久野丹波守の墳墓碑」があるとされている。(2)

参考資料

  1. 風土記稿 久野村 丹波屋敷跡
  2. 田代道彌「皇国地誌久野村誌(草稿本)の発見」『おだわら 歴史と文化』第13号、小田原市役所企画部市史編さん課、2000年3月、39,41頁