久翁寺(きゅうおうじ)、松岳山は、早川にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来。開山は在此孝存(永禄2年・1559没)、開基は関善左衛門(天文15年・1546没)。江戸時代には大住郡大神村(平塚市大神)の真芳寺の末寺で、扇町の大長院の本寺だった。(1)
沿革
中興開山
久翁寺の寺地には、往古は心明院と号する真言宗の寺院があった(1)。後年、廃壊に及んでいたが、天文15年(1546)に後北条氏の家臣・関善左衛門(法名:久翁昌公庵主、同年6月晦日没)が、時の領主・北条長綱入道幻庵の許可を得て、その廃跡に久翁寺を建立した。久翁寺には、その時、幻庵が善左衛門に与えた文書が所蔵されてあった。(1)
早川之庄内寺屋敷之事、右彼屋敷前心明院屋敷、年貢二貫文、一寺建立之志、依難黙止、末代差置之所分明也、並上山之竹木等、為寺之拘、代官百姓等不可有違乱者也、依後日之証状如件、天文十五丙午(1546)六月卅日、願主関善左衛門入道殿、長綱〔華押〕
※『風土記稿』は、関善左衛門の没日の伝が、文書の記載日付と同日のため、没日の伝は信じがたい、としている。
戦国時代
天正17年(1589)7月に後北条氏(関与一)は、中郡徳延(平塚市徳延)のうち河井(川井)分5貫300文の土地を、以前決めたとおり久翁寺が所務すべきことを指示している(1)。『風土記稿』は、「河井分」は大住郡松延村(平塚市纒)に属する、としている。
中郡徳延之内河井分、五貫三百文之地、如先証文、無相違可被拘置候、諸公事等不可有之候、仍状如件、天正十七年(1589)七月三日、関与一奉之、久翁寺、〔虎朱印〕
このとき、寺内の制札も与えられ、またその後も寺内禁制3ヶ条の掟書を発出されていた(所蔵文書があった)(1)。
江戸時代
天和2年(1682)に稲葉正則が慶安2年(1649)の先例の通り、17石4斗余の寺地を寄附しており(下付された安堵状があった)(1)(3)、『風土記稿』のときも、境内に除地があった。また門外に、貞享4年(1687)1月13日に出された領主の制札が建ててあった(1)。
什宝
仏像
本尊の釈迦如来像のほかに、弘法大師の作とされる像高8寸(約24cm)の千手観音像が安置されていた(1)。
古文書
寺宝に、北条長綱(幻庵宗哲)の文書4通があった(5)。
境内
1970年当時、境内は1,000坪(約57.5m四方)、建物は本堂60坪(約14.1m四方)、書院30坪(約10m四方)、庫裡20坪(約8.1m四方)、他80坪(約16.3m四方)(3)。
本堂
本堂は、延享元年(1744)、14世・臥龍珠岡のときに再建された(3)。
関善左衛門の墓
碑銘には、開基夫妻の法号と命日は、「創立院久翁大居士 天文十五年(1546)六月□」と「長昌院松岳寿椿大姉 弘治三年(1557)二月七日」とある(2022年調査)。
福田正夫詩碑
境内に、1966年(昭和41)の福田正夫の15回忌に建てられた福田正夫詩碑と、1993年(平成5)に生誕百年を記念して建立された生誕百年記念の碑がある(2022年調査)。
樹木
1970年当時、境内に北条氏綱手植の老梅があり、当地方(早川?)最古という蜜柑の苗木が植えられていた(3)。
2017年当時、境内にナギの大木がある(4)。
土砂災害特別警戒区域
久翁寺を含む第2早川沢の区域(41017 第2早川沢)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(土石流)に指定されている(2014年3月11日 告示第132号)。(2)
神社
江戸時代には、早川に3つあった山神社のうち1つを管理をしていた(1)。
寺紋
リンク
- 紋谷幹男「第1702回 久翁寺(きゅうおうじ)曹洞宗/神奈川県小田原市早川」『お宮、お寺を散歩しよう』2015年8月9日
参考資料
- 『風土記稿』
- 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.421
- sakawagawa「早川の樹木-2 ビランジュ(海蔵寺)→大ナギ(久翁寺 ) 2017-11-11」YouTube、2017年11月12日
- 寺院総覧編纂局『大日本寺院総覧』明治出版社、1916・大正5、p.515