九思館(きゅうしかん、1873年 - 1876年)は、明治5年(1872)の学制発布を受けて、1873年(明治6)6月に矢作の春光院に開設された小学校(1)(2:13)。千代村ほか21ヵ村で組織された連合村会の本校にあたり、支校が曽我原・永塚に、分教所が成田・田島・鴨宮に開設された(2:13)(3)。
- 石井1959は田島に支校が開設されたとしているが(2)、さんわ会2000によると田島には第2分教所が開設された(3)。
- 連合村会を組織していたのは、西大友、東大友、永塚、千代、高田、別堀、中里、下堀、矢作、鴨宮、上新田、中新田、下新田、曽我岸、曽我谷津、曽我原、曽我別所、田島、桑原、成田、飯泉の21ヵ村(3)。
「九思館」の校名は、『論語 季氏篇』(第16-10)の「君子有九思」に因んで付けられた(3)。
表 九思館とその支校・分教所
学区 | 学校名 | 所在地(村) | 校舎 |
31 | 九思館(本校) | 矢作村 | 春光院 |
- | 第1分教所 | 成田村 | 成願寺 弥勒堂 |
- | 第2分教所 | 田島村 | 地蔵堂 |
- | 第3分教所 | 鴨宮村 | 東照寺 |
35 | (第1支校)曽我原学校 | 曽我原村 | 東光院 |
36 | (第2支校)永塚学校 | 永塚村 | 雷電社 阿弥陀堂 |
資料:(1)(3)
1874年(明治7)の教員数は男5人・女0人で、生徒数は男114人、女31人だった(1)。
1875年(明治8)6月に、本校所在地の矢作が学区の南端に偏っており、支校が各地に散在していることを不都合として、学区のほぼ中央にあった千代の蓮華寺境内に校舎を新築し、また同寺の庫裡を借り入れることになった(2:13)(3)。同年8月2日に(足柄県に)出願し、知事の許可を得て、千代村字古屋敷687番地の84坪(約278m2)を校地として校舎1棟と職員室および小使室1棟の新築ならびに庫裡の改造に着工、1876年(明治9)1月11に工事が完了し(たので校舎を移転し)、千代学校と改称した(2:13)(3)。
参考資料
- 「足柄県公立小学校表」文部省 編『文部省年報 第2年報(明治7年)』宣文堂、1964 復刻発行、92-102頁
- 石井1959:星崎定五郎(述)石井富之助(編著)『移民の先駆者 星崎定五郎』星崎定五郎翁伝記刊行会、1959
- さんわ会2000:さんわ会25周年記念誌編集委員会『下府中地域 我が町の今と昔』さんわ会、2000、77頁