二宮尊徳の墓(写真中央の墓石に戒名「誠明院功誉報徳中正居士」がある)二宮尊徳の墓(にのみやそんとくのはか)は、栢山善栄寺の墓地にある、栢山出身の農業経営・行政コンサルタント・二宮尊徳(金次郎)の墓。

二宮総本家の墓所内にあり、墓所南側の「二宮氏」とある墓碑は、嘉永2年(1849)に金次郎が指図して建てたもの、墓所中央の二宮金次郎の墓碑は、1891年(明治24)に総本家の二宮長太郎によって建てられたものとなっている。

二宮氏の墓碑

墓所の南側(写真左端)にある墓碑は、二宮氏一族の墓碑で、嘉永2年(1849)に二宮金次郎が再建したもの(2:63-65)

弘化2年(1845)の落雷で善栄寺の堂宇が全焼した際に、寺から相談を受けた金次郎は、仕方書を作成して、本堂・庫裡などの堂宇を十ヵ年で再建する計画を立てた(2:6)。嘉永2年(1849)は金次郎の亡父・利右衛門の50回忌にあたり、事業の一環として二宮氏の墓碑が再建され、供養が行われた(2:65-86)。しかし当時、小田原藩から迫害を受けていた金次郎は供養に出席できず、子息の弥太郎と従兄弟の民次郎が代参した(2:83-84)

碑銘も金次郎が指図したもので(2:75-78)、碑の正面(東側)には「清遊常泉上座」以下、10名の戒名が刻されており、上段の5人は右から、総本家の初代伊右衛門夫妻、9代儀兵衛、3代万兵衛夫妻。下段の5人は右から、金次郎の祖父・銀右衛門、総本家の4代万兵衛夫妻、金次郎の父・利右衛門、母・よしの法号となっている(2:76)

碑の裏面(西側)に建碑者の名が「嘉永二(1849)年 二宮金次郎 建之」と刻されているが、建碑当時は藩に憚って空白のままとされており(2:77-78,82)、総本家を相続した二宮貞久が戦後に彫らせたものか、同じく二宮四郎がそれ以前に彫らせたものとみられている(2:78)

二宮金次郎の墓碑

墓所の中央(写真中央)にある墓碑は、二宮金次郎の墓碑で、1891年(明治24)に総本家の二宮長太郎によって建立されたもの(2:121-122)

安政3年(1856)に金次郎が栃木県日光市今市の住居「報徳役所」で死去した後、遺骸は今市の星顕山如来寺に葬られ、葬儀が営まれた(2:112)。戒名は「誠明院功誉報徳中正居士」(1)善栄寺には、今市から金次郎の遺髪と遺歯が届けられ、二宮家の墓所に埋葬されたが(2:111-112)、小田原では墓碑を立てることも、公に葬儀を行うことも憚られ、明治になってから墓碑が造立された(2:111-112)

碑の正面に5名の戒名が刻されており、「誠明院功誉報徳中正居士」が二宮金次郎で、以下、その妻・歌子、伊右衛門家を継いだ二宮増五郎・カヨ夫妻、二宮長太郎の妻・ちよの法号となっている(2:122)

追悼行事

善栄寺では1998年頃まで二宮総本家の主催で二宮尊徳の追悼行事が行われていた(3)。『全国寺院名鑑』には、1970年当時、毎年9月20日「二宮尊徳墓前祭」とある(4)

その後は桜井地区自治会連合会との共催で開催されている(3)。2018年10月14日にも「二宮尊徳先生の偲ぶ集い」が開催され、今市からも14人が参列した。(3)

参考資料

  1. 如意山善栄寺「二宮尊徳先生の墓」現地案内板
  2. 二宮康裕『二宮金次郎と善栄寺』(株)スポーツプラザ報徳、2015。コロンに続けて頁番号を記した。
  3. 善栄寺で尊徳を偲ぶ 今市からも参列タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2018年10月20日号
  4. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.421