二宮 金次郎(にのみや きんじろう、「金治郎」とも書く(2:13))、二宮 尊徳(にのみや そんとく)は、栢山出身の農業経営・行政コンサルタント。
生涯
生い立ち
天明7年(1787)7月23日、栢山で(1)、父・二宮利右衛門、母・「よし」の長男として生れた(2:8)。
- 金次郎の祖父・銀右衛門には妻子がなく、利右衛門は、本家筋の二宮万兵衛家から養子入りした(2:8)。母・よしは天明4年(1784)に曽我別所の川久保家から嫁入りした(2:8)。(銀右衛門から利右衛門への)相続時の安政7年(安永7年・1778または寛政7年・1795誤ヵ)1月には田畑2町3反2畝余(約2.3ha)を所有する中農だった(2:8)。
寛政3年(1791)、5歳のとき、酒匂川の洪水によって田畑が流され、瀬淵となったり、土砂が堆積したり、高台となったりして収穫がなくなり、父母は金次郎ら子供を養うのに苦労した(2:9)。
寛政12年(1800)、14歳のとき、父が48歳で病死(1)(2:11,23-24)、
享和2年(1802)、16歳のとき、母が36歳で病死(1)(2:9,23-24)。子供たちは親戚の家に引き取られ、兄弟と生き別れになった(2:17)。同年、金次郎相続時の所有地は7反5畝余(0.74ha)になっていた(2:9)。
自家の復興
金次郎は、家財を売り払って得た金を「利回し」し、他家での労働で得た賃銭を蓄えて、次第に財を成した(2:16)。
文化3年(1806)から田畑の買い戻しを始めた(2:16)。
文化4年(1807)、21歳のとき、弟・富次郎が母方の曽我別所・川久保家で死去(享年9)(2:12)。
文化7年(1810)には田畑1町4反余(約1.39ha)を所有するようになり、同年12月に自宅を再建して、一家復興を実現した(2:16)。
この頃、俳句に傾倒し、俳号・山雪を名乗って、井細田など各地の句会に参加した(2:17)。
文化8年(1811)、小田原城下へ出て中間奉公をした(2:17)。農地は小作に出して、多角的収益を目指した(2:17)。
桜町への赴任
小田原藩主・大久保忠真は、金次郎の活動に理解を示した(2:6-7)。
文政4年(1821)、(栃木県真岡市)桜町を調査のため訪問(2:17)。同5年(1822)9月より、桜町へ赴任(2:17)。同6年(1823)に妻・なみ、子息・弥太郎も桜町陣屋へ移住した(2:17)。
桜町への移住後、物井・横田・東沼の3ヶ村の復興に努めたが、農民の出身だった金治郎の指示は村民に容易に受け入れられなかった(2:18)。
特に豊田正作が赴任してきた後は、窮境に陥り(妨害に遭い)、成田山参籠を余儀なくされた(文政12年・1829の正月に江戸へ出てから、同年3月下旬まで行方不明になり、この間に成田山新勝寺に籠っていたことがあった)(2:18)。この間に農民14人が領主に金次郎の復帰を直訴し、領主・小田原藩によって豊田は小田原へ召還され、宇津氏に交代した(2:18)。その後の桜町の仕方は順調に進んだ(2:18)。
文政13年(1830)の正月には妻子や伴の者と小田原・栢山へ帰郷し善栄寺へ墓参した(2:18-19)。
天保2年(1831)11月には親類を集め、本人も出席して、栢山・善栄寺で祖父・銀右衛門の50回忌法要を営んだ(2:19-20)。
報徳仕法
天保9年(1838)に鴨宮の三新田村で「日掛縄索法(ひがけなわないほう)」が始められた(2:34)。金次郎は、42軒の農家が、1日に1縄を綯(な)えば、1年で11両余の利益になるといって、「積小為大(小を積んで大と為す)」を説き、貧村の農民に自力復興を促した(2:36)。
天保11年(1840)には、善栄寺に宛てて、二宮家の先祖代々と両親の菩提のため、50両を寄附するので、(それを檀家の村民に貸し付けて、)その利息で永代供養をしてほしい、と申し出た(2:20-22)。二宮2015は、このように資金の運用(利殖)によって事業の元金が損なわれないようにする方法を「報徳仕法」の大きな特色と評している(2:22)。
この頃、小田原藩は30万両に及ぶ借財を抱えており、財政再建が課題となっていた。金次郎は、「分度論(支出が収入を超えないように、支出を削減すること、課税を抑制すること)」と「民優先の論理(民があって君があるのだから、君は民を優先すべきとする論理)」を主張し、藩に財政規律と税の減免を求めた(2:7,52)。
二宮本家の再興
金次郎は、19歳のとき(文化2年・1805)に二宮本家(初代:伊右衛門)の復興に着手し、独力で竹藪の管理を行った(2:25)。
その後、次第に二宮一族の支持を得て、本家の再興資金を積み立てていった(2:25)。また本家相続に相応しい人物として名主・二宮常三郎の弟・増五郎を指名した(2:25)。
文政5年(1822)に金次郎が桜町へ赴任した後、本家の再興事業は暫く中断した(2:28)。
天保年間(1830-1844)に入ってから、再興資金の運用を二宮代蔵に託して田畑を購入させ、田畑から得られた収益で更に田畑の買い増し(受け戻し)を進めさせた(2:28)。田畑の管理は、二宮常三郎・増五郎の兄弟に任せていた(2:28)。
弘化2年(1845)に落雷により栢山・善栄寺の堂宇が全焼した際に、仕方書を作成して十ヵ年計画の再建策を立てた(2:6)。その中でも、「日掛け縄索」による「積小為大論」が説かれた(2:36-51)。弘化5年(1848)1月に庫裡(2:59-60)、嘉永2年(1849)に二宮一族の墓所(2:65-86)、安政2年(1855)春に本堂が再建された(2:104-105)。しかし同年(1855)6月19日以降、何度か洪水の被害に遭い、外囲いなどが流出した(2:104-105)。
死去前の嘉永7年(1854)には、二宮一族に書簡(「治定書」)を送付して、本家再興仕法を伝え、一族が協力して退転者が出ないようにすること、二宮家総本家は個人として相続するのではなく、族長に相応しい人物が家株を相続するようにすることを言い伝えた(2:28)。
しかし安政元年(1854)に、二宮常三郎・増五郎の兄弟間で田畑の分配を巡って争論が起き、相談を受けた金次郎・弥太郎父子は、分配方法について中分を提言するなどした(2:101-103)。争論は、偶々常三郎が死去した後、収束した(2:101-103)。
幕臣登用
天保13年(1842)の秋、金次郎は幕府の老中筆頭・水野越前守に招請され、幕臣に登用された(2:29-30)。水野ははじめ、印旛沼の開拓と、それに伴う利根川分水路の掘削を金次郎に委任しようとしたが、金次郎が作成した計画書は不採用となり、金次郎は各地の幕領の仕法(経営再建)を手掛けることになった(2:29-30)。
天保15年(1844)に日光神領の村々の荒れ地の復興を命じられ、またその仕方を一般化した雛形を作成するよう指示された(2:32-33)。
同年(弘化元年・1844)、雛形を作成中に、江戸で火災に遭い、宇津氏邸に避難した(2:35)。
小田原藩追放
小田原藩領では、報徳仕法の実績と報徳思想は農民から強い支持を受け、各地で報徳金が献納された(2:52)。金次郎の分度論は、藩士の中でも代官・郡奉行などの中間管理層に広がりを見せた(2:52)。しかし、藩の上層部は「民優先の論理」の浸透を憂慮した(2:52)。
(藩主・大久保忠真の死後、)天保15年(1844)頃から、小田原藩では施政方針が変わって金次郎の仕法が変えられ、また藩から関係者に、金次郎と接触しないよう通達が出された(2:32)。
弘化3年(1846)閏5月、日光仕法の雛形が完成し、金次郎は小田原藩に内覧を提案したが、前向きな返答は無かった(2:52-53)。同年6月28日に幕府勘定所に雛形を提出したが、同年7月に小田原藩から呼び出しを受け、報徳仕法の廃止を通知され、これまでの働きに対する恩賞として白銀200枚を贈られた(2:54-55)。
- 二宮2015は、金次郎は幕臣だったため、小田原藩は、正式な処分に付する事ができなかった、と指摘している(2:55)。
以後は、小田原藩領の村々の仕法の指導をすることができなくなり、二宮一族に対して、二宮総本家再興のための仕法を指示するに止まった(2:55-56)。この間、弘化4年(1847)12月にも、曽比村の名主・(剣持)庄左衛門(与頭広吉)から、報徳仕法に対する強い支持を伝えられた(2:58)。
嘉永元年(1848)6月、幕府の奉行衆は、(金次郎は辞退していたが、)小田原藩に対し、報徳仕法の廃止以前に藩が金次郎から貸付けを受けていた報徳金5,100余両を、金次郎に返金するよう命じた(2:61-62)。
- 二宮2015は、このことが小田原藩との対立を一層深めることになった、と評している(2:62)。
野州転居
弘化4年(1847)12月、金次郎は、幕府の勘定所から、御料所のある野州(下野国、栃木県)芳賀郡・常州(常陸国、茨城県)真壁郡の「極難」の村々の荒れ地復興仕法を命じられ、御料所の手付に就任した(2:58-59)。
嘉永元年(1848)9月17日、桜町陣屋から、家族で野州・東郷陣屋へ転居(2:63)。山内総左衛門の手付となり、住居に大前神社別当の神宮寺をあてがわれた(2:63)。
墓参の妨害
嘉永2年(1849)は亡父の50回忌にあたり、金次郎は、善栄寺の二宮一族の墓所を再建して、供養を行おうとした(2:63-65)。墓参のための帰郷を小田原藩に打診したが、藩は金次郎に墓参の自重を促し、領民に金次郎との接触を禁止する通達を出した(2:7,65)。このため供養は行われたが、自身は出席せず、子息の弥太郎と従兄弟の民次郎が代参した(2:83-84)。藩に憚って、再建された墓碑には建碑者である金次郎の名は彫られなかった(2:77-78,82)。
嘉永4(1851)4月、亡母の50回忌の法事の際にも、本人の帰郷・墓参は見送られ、民次郎が代参した(2:86-88)。同年、墓参と二宮一族内の用事のため、小田原藩に帰郷を願い出(2:90-92)、同年12月から翌嘉永5年(1852)閏2月初にかけて、藩から、領内の村々に立ち入って人が集まるようなことはしない、村人と面会する際には藩の許可を得る、などの制約を課されながら、帰郷・墓参を実現した(2:90-93)。
日光仕法
嘉永6年(1853)2月、日光神領の御料・私領の村々の復興仕法を命じられたが(2:94-95)、日光へ出立直前の同年4月19日に出先で倒れ、1ヵ月半の療養生活を送った(2:95-96)。同年6月に東郷陣屋から日光に入り、同年7月から廻村を始めたが(2:95-96)、同年9月、病が再発し、10月中旬に東郷陣屋へ引返した(2:96-99)。また同年7月、娘の文が産後に急死した(2:96)。
翌嘉永7年(1854)春に、子息の弥太郎が日光仕法を命じられて現地に着任し、人足を入れて荒れ地を耕し、用悪水路を普請した結果、復興の成果が上がるようになった(2:96-99)。
安政2年(1855)4月、(栃木県日光市)今市の住居(報徳役所)が完成し、東郷陣屋から家族で今市へ移住した(2:103-104)。
安政3年(1856)3月、日光仕法の功績が認められ、金次郎は普請役に昇進した(2:107-108)。
死去
同じ安政3年(1856)10月上旬、病状が悪化し、同月20日、今市の報徳役所で死去した(享年70)(2:108-109)。栢山にいた実弟の二宮三郎左衛門(幼名:友吉)は、弥太郎から連絡を受けて同月19日に今市に到着しており、死去に立ち会った(1)(2:108-109)。遺骸は今市の星顕山如来寺に葬られ(1)、先祖代々の墓のある栢山の善栄寺に遺髪と遺歯を納め置くことになり、これらを託された三郎左衛門は同月26日に栢山に戻って、遺髪と遺歯は善栄寺の二宮家の墓所に埋葬された(1)(2:111-112)。
葬儀は日光の如来寺で行われたが、金次郎追放下の小田原藩領内では公式な葬儀が行われず、農民の代表が如来寺に赴いて墓参した(2:112)。また小田原藩士の山崎金五右衛門は自家の菩提寺である小田原の三乗寺(現誓願寺)で秘かに二七日の法要を行い、関係者の藩士が参席した(2:112-113)。
小田原では墓碑を立てることも憚られ、明治24年(1891)になってから、二宮本家・長太郎によって、金次郎、明治4年(1871)に死去した金次郎の妻・歌子ら5人を合わせた墓碑が造立された(2:121-122)。
遺産と遺訓
金次郎は生前、各地の仕法の分担をすすめ、
が担当していた(2:110)。
仕法金は、各地から回収した仕法金11,000両余と相馬藩からの助成金5,000両、宇津家からの永代知行高100石を元に、日光山に3,000両を貸付け、300両を年利として受取り、仕法金に充当する計画としていた(2:110)。
安政2年(1855)の大晦日に、弥太郎や門弟に、書簡・日記をみるように指示し、また弥太郎に遺訓を残した(2:110)。
金次郎の死後、安政4年(1858)12月に弥太郎は父と同じく幕府の普請役に召し抱えられ、扶持・役料を引き継いだ(2:115-116)。
著作物
- 二宮尊徳(著)二宮尊親(編)『道歌集』興復社、1897・明治30年
全集
- 佐々井信太郎ら編『二宮尊徳全集』1-36巻、二宮尊徳偉業宣揚会、1927-1932
- 報徳文庫(編)『報徳叢書』報徳文庫、1935
- 二宮尊徳全集刊行会編『解説二宮尊徳翁全集』第1-6、二宮尊徳全集刊行会、1937-1938
- 二宮尊徳全集刊行会編『二宮尊徳新撰集』1-6巻、二宮尊徳全集刊行会、1938-1939
- 吉地昌一『二宮尊徳全集』第1-7、福村書店、1957
- 『二宮尊徳全集』1-2巻、穂波出版社、1969-1970
- 加藤仁平『二宮尊徳全集補遺』報徳同志会、1971
- 『二宮尊徳全集』復刻版、1-36巻、竜渓書舎、1977
関連資料
- 富田高慶(編)『報徳記』富田高慶、1883・明治16
- 小田切春江(編)木村金秋(画)「二宮金次郎先生茄子を喰して凶荒を知る図」『凶荒図録』愛知同好社、1885・明治18年5月
- 切山聴松「二宮金次郎氏」『実業史談』壺天堂、1887・明治20年6月
- 著者不明「二宮金次郎君の贈位」明治会『明治会叢誌』No.37、1891・明治24年12月、pp.38-41
- 著者不明「二宮尊徳先生の少時」『家庭雑誌』Vol.1, No.4, 1892・明治25年12月、p.15
- 「十。 二宮金次郎。」「十一。二宮金次郎。(つづき)」「十二。二宮金次郎。(つづき)」那珂通世・秋山四郎(編)『尋常小学修身口授書 第4』共益商社、1893・明治26年、16ウ-21ウ
- 高橋省三(編)『二宮金次郎』学齢館、1894・明治27
- 「第23課 二宮金次郎」文学社編輯所(編)『国民読本 高等小学校用 巻1』文学社、1897・明治30、30ウ-32オ
- 峡北隠士『二宮尊徳・佐藤信淵』富士書店、1900・明治33
- 獲麟野史「二宮金次郎意外の賞罰」『実業立身策』1901・明治34、pp.103-105
- 幸田露伴『二宮尊徳翁』19版〈少年文学7〉博文館、1903・明治36
- 「二宮金次郎」教育資料研究会(編)『尋常小学校外修身書 第3学年 巻1』学海指針社、1904・明治37 、pp.25-60
- 雑誌『報徳』大日本報徳社
- 下程勇吉『二宮尊徳 - 現実と実践』弘文堂、1942
- 中野敬次郎『二宮金次郎』弘学社、1948
- 中野敬次郎『二宮金次郎』潮文閣、1949
- 松沢のぼる『二宮金次郎』鶴書房、1954
- 中野敬次郎『善栄寺縁起』トウカイプリント、1975 (2:124-125)
- 神奈川県足柄上郡『足柄上郡誌』足柄上郡教育会、1924・大正13
- 大藤修『近世農民と家・村・国家』吉川弘文館、1996
- 大藤修『近世の村と生活文化』吉川弘文館、2001
- 下程勇吉『二宮尊徳の人間学的研究』広池学園出版部、1965
- 『小田原市史 史料編 近世II 藩領1』小田原市、1989
- 『小田原市史 史料編 近世III 藩領2』小田原市、1990
- 二宮康裕『日記・書簡・仕方書・著作から見た二宮金次郎の人生と思想』麗澤大学出版会、2008
- 二宮康裕『二宮金次郎正伝』モラロジー研究所、2010
- 『二宮先生族譜』二宮康裕氏蔵、成立年不明 (2:124-125)
- 『二宮翁誕生地建碑寄附帳』二宮康裕氏蔵、1901 (2:124-125)
- 『二宮尊徳遺跡其他 訪問者名簿』二宮康裕氏蔵、1901- (2:124-125)
参考資料
- 如意山善栄寺「二宮尊徳先生の墓」現地案内板、設置時期不明、2022年閲覧
- 二宮康裕『二宮金次郎と善栄寺』(株)スポーツプラザ報徳、2015。コロンに続けて頁番号を記した。