八幡社(はちまんしゃ)、八幡神社(はちまんじんじゃ)、八幡宮(はちまんぐう)は、八幡神を祀った神社(1:35)。山体ないし巨石を御神体とする、新羅の(渡来人系の)神を祀っていた福岡県の香春神社ないし大分県の宇佐八幡宮を起源とする。仏教伝来初期に弥勒菩薩と習合し、朝廷の奉幣を受けて応神天皇と習合。8世紀末頃から八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)の呼称がある、神仏習合の代表的な神。東大寺の守護神として各国の国分寺に勧請され、また源頼義以来、源氏の氏神とされて、武神、勝利の神として武士の崇敬を集めた。1990年 - 1995年に神社本庁が行った調査によると、信仰別の神社数で八幡信仰は全国1位(7,817社/49,084社)。
沿革
成立
八幡神は『古事記』や『日本書紀』の日本神話の中には登場しない(1:35)。
宇佐八幡宮の縁起を伝える資料のうち、鎌倉時代末期(正応3・1290 - 正和2・1313)に執筆され、後代に追補された『八幡宇佐宮託宣集』(『託宣集』)によると、欽明天皇の32年(571)に、(豊前国)宇佐郡の宇豆高島(うずたかしま)で、大神氏の祖・大神比義の前に3歳の童子の姿で八幡神が現われ、「辛国(からくに)の城に、始めて八流の幡(はた)と天降って、吾は日本の神と成れり・・・」と託宣を下した(1:43-45.48)。「辛国」とは韓国のことで、「辛国の城」は朝鮮半島からの渡来人が生活するようになった地域と考えられている(1:43-45)。その後、八幡社は、7世紀(天智天皇の時代)に現在地(小椋山)より2kmほど西の鷹居へ移転し、更に現在地へ移転したという(1:48)。
末尾に承和11年(844)6月17日の日付があり、15世紀末、京都の石清水八幡宮の護国寺の検校法印大和尚位准法務僧正・奏清による写本の伝わる『宇佐八幡宮弥勒寺建立縁起』(『承和縁起』)(1:43-44)には、2つの伝承が記されており、1つは、八幡神は応神天皇の霊で、欽明天皇の時代に豊前国宇佐郡の馬城嶺(まきみね)に出現し、戊子年に大神比義が鷹居社を建立して祀り、のちに小椋山へ移したとしている(1:48)。「馬城嶺」は宇佐八幡宮の南々東にある御許山(おもとやま)を指しており、同山の頂上には3つの巨大な石があり、麓の大元(おおもと)神社には拝殿のみがあって本殿はなく、山体ないし頂上の巨石が御神体となっている(1:48-49)。
もう1つの伝承では、欽明天皇の時代に宇佐郡の辛国宇豆高島に降臨した八幡神は、大和国の膽吹嶺(いぶき)へ移り、紀伊国の名草海嶋、吉備国の宮神島を経て馬城嶺に至り、馬城嶺でも遷座を繰り返した後に、現在の小椋山に鎮座したとしている(1:49-50)。
また『豊前国風土記』の逸文に「昔者、新羅の国の神、自ら度り到来りてこの川原に住みき、すなわち名を鹿春の神といひき」とあり、逵日出典は、福岡県田川郡香春町の香春岳の山麓にある香春神社に新羅の神を祀っていた渡来人の集団が、東へ移住して宇佐で八幡神を祀るようになったのではないか、と推測している(1:45-46)。
『続日本紀』(延暦16年・797完成)によると、天平9年(737)1月に新羅に派遣した使節が受け入れを拒否されたとき、朝廷は伊勢神宮、大神神社、筑紫国の住吉と香椎宮、および八幡に幣帛を奉って報告をした(1:36)。(すなわち、このとき既に八幡社は存在していた)
弥勒菩薩との習合
『託宣集』や『承和縁起』によると、神亀2年(725)に八幡神が小椋山へ遷座し、山上に社殿が建立された際に、境外の東南東に弥勒禅院、東南に薬師勝恩寺が建立された。天平10年(738)に2つの寺院が統合され、八幡神宮弥勒寺が創建された(1:52)。
応神天皇との習合
八幡神は第15代・応神天皇と習合して天照大御神に次ぐ皇祖神と位置付けられるようになり、このことが八幡信仰が広がるきっかけとなった(1:36)。
天平12年(740)に太宰府に左遷された藤原広嗣が反乱を起したとき、朝廷は八幡に戦勝を祈願した(1:37)。翌年(741)、広嗣が討たれて反乱が鎮圧された後に、宇佐(大分県宇佐市)の八幡神宮に什物を寄進した(1:37)。
『正倉院文書』によると、宇佐の八幡神宮は、聖武天皇が東大寺の大仏を造立中だった天平17年(745)に、東大寺に建立費を送った(1:38)。これに対して朝廷は使者を派遣して奉幣を行い、翌天平18年(746)から19年(747)にかけて、病を患った聖武天皇の平癒祈願のため八幡神を三位に叙し、寄進をした(1:38)。
東大寺の大仏建立への貢献
天平勝宝元年(749)年11月1日、大仏の鋳造が終った後に、八幡神に仕える八幡大神禰宜外従五位下大神杜女(おおみわのもりめ)と主神司従八位下大神田麻呂(おおがのたまろ)の2人に「大神朝臣」の姓が与えられ、同年12月18日に大和国平群郡(奈良県)に梨原宮(なしはらのみや)が建立された(のちの手向山八幡宮)(1:38)。大神杜女は同月25日に孝謙天皇、聖武太上天皇らと東大寺の大仏を礼拝し、また梨原宮に僧侶を招いて悔過(けか)法要を営んだ(1:39)。天平勝宝4年(752)に大仏の開眼供養が営まれた(1:39)。
八幡神は東大寺の守護神とされ、東大寺を「総国分寺」と位置付けて各国に国分寺が建立された際(天平13年・741)に、各地に八幡神も勧請された(1:56)。
宇佐八幡宮神託事件
神護景雲3年(769)5月、朝廷に、宇佐の八幡神から、法王(法皇)となっていた弓削道鏡を皇位に就けるよう託宣が下ったとの知らせがあり、称徳天皇(=孝謙天皇)は、法均(女官・和気広虫)の弟・和気清麻呂を宇佐に派遣した(1:41)。
しかし、同年9月に清麻呂は、「皇統につらなる人間を皇位に就けるべきだ」として、皇統と無縁な道鏡が皇位に就くことを否定する託宣を受けて戻った(1:41)。称徳天皇は、法均と清麻呂を流罪に処したが、翌年、称徳天皇は死去し、道鏡は失脚した(1:41)。
朝廷による奉幣と石清水八幡宮
その後も、朝廷は、天皇が即位したときや、国家に大事が起った際に、宇佐八幡宮に対する奉幣を行い、9世紀の終わりからは、3年に1度の奉幣が定例化された(1:53)。
貞観元年(859)に、現在の京都府八幡市に宇佐八幡宮を勧請して男山八幡宮(のちの石清水八幡宮)が建立され、天元2年(979)から天皇の行幸も行われるようになった(1:54)。
宇佐八幡への奉幣は、鎌倉時代中期まで続けられた(1:53-54)。
八幡大菩薩
『承和縁起』によると、天応元年(781)に八幡神は「護国霊験威力神通大菩薩」の号を奉り、延暦2年(783)に託宣によって「護国霊験威力神通大自在王菩薩」と称するようになったという(1:56)。
8世紀末から9世紀初の太政官符などの公文書にも、「八幡大菩薩」の呼称が記されている(1:57)。
筥崎宮
延喜21年(921)に福岡・博多の箱崎に八幡宮が建立された(筥崎宮、筥崎八幡宮)(1:55-56)。同社は、宇佐や石清水から勧請されたものではなかったという(1:55)。
元寇で蒙古が襲来したときに、亀山上皇が祈願を行い、その際に神門に「敵国降伏」と記した扁額が掲げられた(1:56)。
源氏の氏神
河内源氏の2代目・源頼義は、前九年の役に勝利して凱旋した際(康平7年・1064)に、現在の大阪府羽曳野市に石清水八幡宮を勧請して壺井八幡宮を建立した(1:55)。
また頼義は、鎌倉の由井郷鶴岡(現在の材木座)に石清水八幡宮を勧請して鶴岡若宮(わかみや)を建立した(1:55)。
源頼朝は、鎌倉に幕府を開いた際に、鶴岡若宮を由井から現在の位置に移し、鶴岡八幡宮を創建した(1:55)。
源氏の後に将軍家となった足利氏や徳川氏も八幡神を氏神とし、八幡神は武神とか勝利の神として武士の崇敬を集めることになった(1:55)。
神社数
神社本庁が1990年(平成2)-1995年(平成7)にかけて行った、傘下79,355社(うち祭神が判明している49,084社)を対象とする「全国神社祭祀祭礼総合調査」によると、八幡神社・八幡宮・若宮神社などの八幡信仰の神社の数は7,817社で、全国1位(1:33)。
関連資料
- 中野幡能『八幡信仰史の研究』吉川弘文館、1967(増補版、上下巻、吉川弘文館、1976)
- 中野幡能『八幡信仰』〈塙新書〉塙書房、1985
- 中野幡能『八幡信仰事典』戎光祥出版、2002
- 逵日出典『八幡神と神仏習合』〈講談社現代新書〉講談社、2007
参考資料
- 島田裕巳『なぜ八幡神社が日本でいちばん多いのか』幻冬舎新書326、幻冬舎、2013
リンク
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