八幡神社(やわたじんじゃ)は、国府津にある神社(1)。2021年1月1日現在、神社本庁傘下の被包括宗教法人(1)。
沿革
創建
『風土記稿』のとき、国府津村には安楽院が別当寺の八幡社があった(3)。安楽院は、元応2年(1320)、僧・高伝(同年没)によって創建されている(4)。
戦国時代
弘治元年(1555)5月に後北条氏の評定衆・石巻下野守康保が、国府津における寺社の修造に従事すべき番匠の事を指示するために送った文書(宝金剛寺文書)の中に、「於国府津番匠可召仕事、八幡宮・天神宮修造之時、倩次第何成共可召仕事、(・・・)」とみえる(5)。
明治期
1909年(明治42)8月に、政府の命令により、国府津の八幡神社は菅原神社に合祀された(6)。
昭和期
1954年の『国府津町誌』によると、当時の国府津町内には、無格社の八幡神社があった(6)。
境内
石灯台
『風土記稿』のとき、国府津村の八幡社の社前には、寛永5年(1628)の石灯台があった(3)。
忠霊塔
1954年の『国府津町誌』によると、八幡神社の境内にある忠霊塔は、満州事変以降の国府津町の戦没者186柱を祀った慰霊塔で、1954年(昭和29)10月に建立された。明治維新から日露戦争までの戦没者の忠魂碑は、それ以前に菅原神社の境内に建てられていたが、満州事変以降の戦没者については太平洋戦争の終戦後も建碑が憚られていた。しかし1952年(昭和27)4月にサンフランシスコ講和条約が締結されたことを契機として建碑の気運が高まり、1954年(昭和)4月に忠霊塔の建設が議決された。「忠霊塔」の3字は靖国神社の宮司・筑波藤麿の揮毫によるもので、筑波は菅原神社の近藤金之助と共に建碑式の司祭を務めた。(7)
年中行事
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不詳
リンク
- 澤田晃一「八幡神社(神奈川県小田原市国府津)」『神社訪問記』2014年11月24日作成、2019年1月1日更新
- マイナーズ銀次郎「小田原市の【 国府津 】は見逃せない!」YouTube、2021年6月30日
参考資料
- 神奈川県ホーム > 教育・文化・スポーツ > 文化・芸術 > 宗教法人 > 宗教法人について > 神奈川県知事所轄の宗教法人 > 宗教法人名簿(令和3年1月1日現在) > その他1 宗教法人名簿(PDF:708KB)
- 神奈川県神社庁ウェブサイト>神社詳細>八幡神社、更新時期不明、2023年2月20日閲覧
- 『風土記稿』成田庄 国府津村 八幡社
- 『風土記稿』成田庄 国府津村 安楽院
- 『風土記稿』成田庄 国府津村 宝金剛寺
- 国府津町誌編纂委員会「菅原神社」『国府津町誌』国府津町、1954、195-197頁
- 「忠霊塔の建設」『国府津町誌』227-229頁