剣持四郎右衛門(けんもち しろううえもん)は、江戸時代に網一色村(東町の一部)の名主を務めた家系。代々「四郎右衛門」と称した。(1)

由緒

東町の常顕寺の開基・剣持与次郎常清(寛永16年(1639)6月16日没、法名:祥雲宗瑞)を祖先とする(2)

天正18年(1590)の小田原合戦のときには、宅地が大久保七郎右衛門忠世の陣所になった(1)(3)。大久保忠世の陣屋が特に優れて華麗だとして、豊臣秀吉徳川家康も陣屋を訪れたという(3)

領地

大久保忠世が小田原城主になった後、その宅地(1反3畝26歩、約1,375m2)は除地として諸役を免除され、以後19世紀前半に至るまで、城主や所有者が変わっても除地のままだった(1)

また寛永19年(1642)に領主・稲葉美濃守正則から下賜された免田1段9畝11歩(約1,921m2)を所有していた(1)

  • これは、寛永年間(1624-1644)に、それまで務めていた「名主割元役」という役職が廃止されることになり、剣持家は大久保氏の時代からの由緒ある家柄で、また功労も少なくなかったとして宛て行われたものだった(1)

家宝

家蔵の刀1腰は、屋敷が大久保忠世の陣所になっていた頃に賜与されたものといわれていた。白鞘で、銘に「相州住康春作」とあった。長さ3尺3寸(約100cm)。(1)

その他に、春日局から与えられた円径6寸(約18.2cm)の古い鏡1面があった。授与された理由はよくわからなかった。(1)

古文書

古文書数通を所蔵していた(1)

  • 1通は、康安2年(1362年)、将軍義詮から左兵衛督基氏あての書状で、某人の軍勢の乱妨を停止すべきであることを記載したもの。剣持家に関係するものではなかった。
  • 1通は、天文19年(1550年)4月、後北条氏の指示書で、網一色村の百姓中に与えたもの。
  • 4通は、元和・寛永年間(1615-1644)に、網一色村・山王原村が酒匂川の越役を務めることから、諸役を免除するとした証書だった。
    • 1通は、元和元年(1615)に原方舟役および年貢を毎年のように納めるべきことを伝える磯部源五郎・植村忠左衛門からの証状。『風土記稿』は、磯部らは近藤石見守秀用の家士で、このとき秀用は小田原御城番に任じられていた、と推測している。
    • 1通は、川越人歩の加勢を、中島・町田・今井の村々に課して求める証状。
    • ほか2通は、それぞれ、元和8年(1622)の領主・阿部氏の家臣からの文書と、寛永4年(1627)の代官・八木次郎右衛門からの文書で、どちらも四郎右衛門の家の蜜柑樹・竹木について、大久保忠世以来の由緒を以て免除する由を指示したものだった。

参考資料

  1. 『風土記稿』 網一色村 旧家四郎右衛門
  2. 『風土記稿』 網一色村 常剣寺
  3. 『風土記稿』 網一色村 大久保七郎右衛門忠世陣所跡

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