北条幻庵屋敷跡(ほうじょうげんあんやしきあと)は、久野にあった北条幻庵の屋敷の跡地。
『風土記稿』の久野村の項によると、小名・中宿にあって、広さは3,000坪(約100m四方)。19世紀初めには、田畑が開拓され、租地(地租を課される土地)となっていた。周囲は竹林で、南側に石垣の形があり、門戸の跡とみられた。寛文12年(1672)の久野村の記録には「幻庵屋鋪、123間に95間(224m × 173m)程」とあった。(1)
この土地と南続きの土地には、「中屋鋪」「太鼓屋鋪」、東には「七軒屋鋪」などの字があり、幻庵が暮らしていた頃の名残りと言われていた(1)。
宗牧『東国紀行』には、天文14年(1545)2月に小田原に至ったとき、幻庵の邸宅を訪問したことがみえる(1)。
天文14年2月、小田原も見えわたるほど、幻庵より迎たまはり云々、 26日幻庵より朝風呂に入べきよし使あり云々、 幻庵後園の山家見すべしとて、竹の枯葉を踏分て、しるべせられたり、安房上総の浦々、窓うつ心地して、鎌倉山は茶屋の木末(こずえ)にかかれり、近き眺望は言ふにたらざるべし云々、 28日の発足の砌(みぎり)、幻庵小袖重畳、あづまのみやげなどまで、おもひよられて、 花ちれば 別れをいそぐ ことのはの しげりあふ日を いつとまちみん、 返し、 花の春 あかて別れし 心をば 葉の秋にこそ 色もみえなん 又これより小袖のしうちゃくを申て、 目も春に 色こき袖の 浦波を かけてもいはん 言の葉ぞなき、 袖の浦、小田原の近辺に在となり、
※「袖の浦」は東町海岸。
『風土記稿』は、19世紀初の地勢では、屋敷跡は山間にあって眺望には都合がわるく、宗牧は後園から房総の浦々まで見えると記しているので、当時、幻庵には小田原城府内にも宅地があって、宗牧はそこを訪問したのではないか、と推測している。(ただし、府内に幻庵の邸宅があったという伝はなかった)(1)
その後、稲葉氏が小田原藩主となっていた頃、その家臣・稲葉休山がここを隠居の地とした。(1)
寛文12年(1672)の久野村の記録に「11年前(1661)より、稲葉七郎兵衛下屋舗になりし」とあり、『風土記稿』は、この七郎兵衛と休山は同一人物だろう、と推測している。(1)
陸田の間に広さ30坪(約10m四方)の盆池(人工の小さな池)があり、仮山(築山)の形が残っていて、『風土記稿』は休山が住んでいた頃のものだろう、と推測している。(1)
幻庵の墓
また屋敷跡の西側の竹林の中に幻庵の墓があり、地元の人は「御霊屋」と呼んでいた。五輪の表面が剥がれた碑に苔が生えていて、その前に石灯が1基あり、5,6段の石段を上ってそこに至るようになっていた。階下には自然石の水鉢があった。(1)
少し昔までは(階段の上に)覆殿があって、朱塗りで、彫鏤などが施され、精巧なつくりになっていたといわれていた。しかし階上に上がると瘧疾(おこり)に罹るなどと言い伝えられて、人が近付かなかったため、雨露によって朽ちてしまったという。(1)
『風土記稿』は、この場所は幻庵が本当に葬られた場所のようだが、線香の手向けもなく、古墳が雑草の中に埋もれているのは残念だ、と評している。(1)
リンク
- 「北条幻庵屋敷跡 地元の熱意で後世へ 有志の会が保存活動」タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版、2018年6月30日
- hinahina「北条幻庵屋敷を歩いてみた」わたしの城めぐり、2017年2月25日
参考資料