堀秀政の墓(宝篋印塔4基)堀秀政の墓(ほりひでまさのはか)は、早川海蔵寺の墓地にある、天正18年(1590)の小田原合戦のとき陣没した豊臣秀吉の家臣・堀秀政の墓碑。(1)(2)

『風土記稿』によると、小田原合戦のとき陣没した堀秀政と戸沢盛安は、海蔵寺の中興開基とされており、境内に墳墓があった(1)。同書には「卒年法名は、墳墓の条に出す」と記してあるが(1)、墳墓の条を含む海蔵寺の境内全般に関する記事が脱落しているらしく、詳細不明。

現地の案内板によると、堀秀政は天文22年(1553)美濃国の生れで、はじめ織田信長に仕え、天正10年(1582)の本能寺の変後に秀吉の麾下となり、同年、越前国の北の庄(福井県福井市)に移封され、18万余石の大名となった。天正18年(1590)、小田原城の包囲作戦中に疫病に罹り、38歳で陣没した。(2)

堀秀政の戒名は「海蔵寺殿広岳道哲大居士」で、ほかに殉死したと思われる家臣・大野左京らの墓(「安山岩質の形のよい宝篋印塔」)があるとされている(2)

堀秀政の墓(五輪塔と宝篋印塔の一部)その脇には宝篋印塔の一部や五輪塔もある(写真参照、2022年調査)

戸沢盛安の墓は所在不明。

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参考資料

  1. 『風土記稿』早川村 海蔵寺
  2. 著者不明・設置時期不明「海蔵寺と堀秀政の墓」現地案内板、2022年調査