大久保 忠朝(おおくぼ ただとも、1632年 - 1712年)は、江戸前期の小田原藩主(在任:貞享3・1686 - 元禄11・1698)。大久保忠隣の玄孫にあたり、御家断絶以来、72年目に再び小田原城主となった(1:11)。
経歴
寛永9年(1632)、大久保右京亮教隆の2男として生まれる(2)。母は松平和泉守家乗の女(2)。はじめ教広(のりひろ)といった(2)。
寛永15年(1638)8月1日、7歳のとき、3代将軍・徳川家光にお目見え(2)。
寛永18年(1641)10月3日、4代将軍・徳川家綱付きとなり、のち御小姓を務める(2)。
慶安4年(1651)8月16日、従五位下、出羽守に叙任(2)。
万治3年(1660)11月25日、御小姓組の番頭に昇進(2)。
寛文6年(1666)12月25日、3千石を知行する(2)。
寛文10年(1670)3月8日に大久保忠職の養子となり、同年6月13日に遺領を継いだ(2)。
延宝5年(1677)7月25日に老(中)となり、加賀守を名乗る(2)。同年12月26日、従四位下(2)。
延宝6年(1678)1月23日、唐津から下総国佐倉へ移封される(2)。同月25日、3万両を貸与される(2)。
延宝8年(1680)1月12日、播磨国印南、加西、下総国埴生の3郡のうちに、1万石を加増される(2)。
貞享3年(1686)1月21日、播磨国印南、加西、多可の3郡のうちに、1万石を加増される(2)。佐倉から、相模国足柄上、足柄下、淘綾、高座、駿河国駿東、伊豆国加茂、下野国芳賀の7郡のうちに移封され、小田原城に在城(2)。
元禄7年(1694)4月21日、河内国交野、讃良、茨田の3郡のうちに、1万石を加増される(2)。このとき合わせて11万3千石余を領有していた(2)。
元禄10年(1697)6月25日、奉書への加判を許される(2)。
元禄11年(1698)2月15日、致仕(2)。同年10月16日、子の大久保忠増らに領地を相続(3)。
宝永2年(1705)9月22日、木工頭(もくのかみ)に改める(2)。
正徳2年(1712)9月25日に死去、享年81(2)。法号:実邦了円松慶院(2)。青山の教学院に葬られ、その後、同院は代々の葬地とされた(2)。
参考資料
- 市川幸雄「昔の小田原と西北4部落の成立」富水西北史談会 編『ききがたり 富水西北の歴史 第1巻』富水西北公民館、1984・昭和59、10-16頁
- 堀田正敦ほか『寛政重修諸家譜』巻第707 大久保 宇都宮支流(藤原氏道兼流) 続群書類従完成会版、1965、巻第11、382-384頁、(大久保)忠朝
- 同384頁、(大久保)忠増