大沢 正秀(おおさわ まさひで、天文16年(1547) - 元和8年(1622)1月8日)、大沢 次郎左衛門(おおさわ じろうざえもん)。

経歴

3つの伝

  • 『寛永諸家系図伝』によると、はじめ織田信長に仕え、(天正10年・1582に)信長が自害した後は浪人となり、豊臣秀吉豊臣秀次に仕えて2,600石を領有した。のちまた浪人して小田原に住居した。この頃、徳川家康大久保相模守忠隣を使いとして召し出すように命じたが、急病により死去した。享年76。法名:泰閑。(1)
  • 家譜によると、信長が自害した後は、浪人となって美濃国に住んでいた。関ヶ原の合戦のときは、父子5人が戦場に赴き、軍功を顕わしたが、嫡子・新十郎、二男・又十郎と家従が戦死した。そこで家康が感心して、自分に仕えてほしいとお願いしたため、風祭万松院に住み、幕府の指示を待っていた。その後、榊原康政と大久保相模守忠隣が訪問してきて、召し出されるべきだという幕府の指示を伝えたが、その翌日急死した。(1)
  • 墓は、風祭・万松院にある。寺伝によると、法名は「自得寺泰巌宗安」で、元和8年(1622)1月8日没(1)

没年への疑義

『風土記稿』は、『寛永諸家系図伝』にも家譜にも没年が記されていないが、これらの記録によれば、(大久保忠隣は慶長19年・1614に改易になっており、榊原康政は慶長11年・1606に死去しているため)寺伝に元和8年・1622没とされているのは誤りだろう、としている(1)

大久保忠隣・榊原康政が訪問してきた、という話を疑う余地もありそう。『寛永諸家系図伝』の正秀の子・正重の伝は、家康・秀忠にも仕えた、としているものの、「大猷院殿(家光、元和9年・1623より在位)の欽命を奉り」と特に記しているので、大阪の陣まで豊臣氏に仕えて、正重は元和9年(1623)に取立てられたのかもしれない。

参考資料

  1. 『風土記稿』風祭村 万松院