大蓮寺(だいれんじ)、稲荷山一花院は、南町2丁目にある浄土宗の寺院。本尊は阿弥陀如来。開山は報蓮社能誉 純菜(寛正2年・1461没)。開基は不詳。江戸時代には京都・知恩院の末寺だった。(1)
沿革
かつては、院号を通号にしていたという(1)。
大道寺駿河守政繁(天正10年・1582没)の母・宝地院が中興開基となり、このとき現在の寺号を授けられた(1)。
- 宝地院の法名は孤峯蓮香比丘尼で、上州安中(群馬県高崎市通町)・大信寺に墓碑があり、その「大信蓮香」の文字を摘って、大蓮寺と名付けた(1)。
慶長13年(1608)11月15日の浄土宗と日蓮宗の宗論のとき、大蓮寺の住僧・了的が指示を受けて論衆に加わった(1)。
- 『浄土日蓮宗論記』に「知恩院之門徒英長寺上人廓山、被撰其対論之仁、小田原大蓮寺上人了的加旃」とある(1)。
中興開山は聖誉幡廓(正保4年・1647没)(1)。
仏像
本尊の阿弥陀如来像は、台座を含めて像高3尺6寸(約109cm)、恵心僧都の作とされていた。また、台座を含めて9寸(約27cm)の円光大師自作の像が安置されていた。(1)
境内
観音堂
『風土記稿』のとき、境内の観音堂に正観音が安置されていた(1)。像高1尺2寸5分(約37.9cm)、恵心の作(1)。
稲荷社
『風土記稿』のとき、境内に稲荷社があった(1)。
鐘楼
『風土記稿』のとき、境内の鐘楼の鐘は、寛永18年(1641)の鋳造だった(1)。
子院
『風土記稿』のとき、子院・香樹庵と一花院があった(1)。かつて「西照院」という子院があったが、宝暦10年(1760)に大住郡堀斎藤村(秦野市堀西)に移転したと同村に伝えられていた(1)。
遊撃隊士の墓
1994年頃、戊辰箱根戦役のとき戦死した幕府方の遊撃隊士の墓があった(2)。
寺紋
寺紋は五七桐。(2019年調査)
リンク
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マイナーズ銀次郎「海への散歩道【小田原市・南町】」YouTube、2022年1月19日
- 藤本巧「「唐人町」の言い伝えに往時を偲ぶ」『民団新聞』2019年10月16日、arc.
- nekata「神奈川県小田原市の石造物(閻魔)」『石仏探訪 ー高遠石工の作品を訪ねてー』2019年1月29日
- 上総行「大蓮寺 - 遊撃隊士戦死之墓」『To Kazusa』2014年1月24日
- 優希、幕末関連史跡補完計画 HOME > 史跡便覧 > 関東 > 神奈川県小田原市、最終更新 2011年4月6日
- 林淳「慶長十五年金戒光明寺独立についての覚書」『愛知学院大学禅研究所紀要』第21号、1993・平成5年3月、pp.153-164
- 池田博明・佐藤伸一・稲葉茂代「小田原市内4箇所の社寺林(蓮昌寺・大蓮寺・真福寺・大稲荷神社)の真正クモ類」『神奈川自然誌資料』No.8、1987年3月、pp.99-105
参考資料
- 『風土記稿』
- 播摩晃一「戊辰箱根戦役と小田原藩」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、6-7頁