天正庵跡(てんしょうあんあと)は、江之浦村の住民・(大野)与兵衛の家の庭の、2間(3.6m)四方の広さの中に礎石が残っていた数奇屋(小さい茶室)の跡(1)

天正18年(1590)の小田原合戦のとき、豊臣秀吉が諸将の長い在陣を慰労するために数寄屋を作らせて、石垣山の陣所からここを訪れ、自ら茶を点てて諸大将を饗応した場所で、そのため後に「天正庵」の号を授けられた、と伝えられていた。(1)

2019年1月現在、天正庵跡には古民家を改修して開店したパン屋「麦焼処 麦踏」が営業している(2)

ゆかりの物品

秀吉ゆかりの盃と碁枰(1)その頃、与兵衛の先祖・大野五郎兵衛に秀吉自身が与えたとされる盃1口が所蔵されており、総黒髤(漆)で、描金して図のような模様が入れてあった。(1)

  • 大野家蔵の『天松庵由来記の略』に、秀吉が諸大将を饗応した経緯が記されていたが、『風土記稿』は同記録は小瀬甫庵『太閤記』に拠って作出したもの、と評している。(1)
  • 同記略の後半写し:当村前は滄海に臨み、後は陣所御城山と唱ふ、五郎兵衛弊庭より此城山へ行処を、今に関白道といふ、既に庭に公の乗馬の蹄の跡とて存す、此数奇屋も先祖五郎兵衛へ預けられ、公或時先祖五郎兵衛へ盃を賜り、今に珍重し納置/領主大久保公へも代々一覧に備へける、(1)

碁枰

また碁枰(碁盤)1面を所蔵しており、これも同じ頃、秀吉が諸将と対局したときに用いた道具と言われていた(1)

ツツジ

庭中のツツジ4・5株はその当時からのものといわれていた(1)

秀吉の馬の蹄跡

庭内に長さ8・9尺(242-273cm)横幅4尺(121cm)ほどの巨石が1つあり、石の表面に秀吉の馬の蹄の跡があるといわれていた(1)

リンク

参考資料

  1. 風土記稿
  2. 嶋津史(文)・高嶋佳代(写真)「【わざわざ訪ねたい、里のパン屋さん1】「麦焼処 麦踏」(神奈川県・小田原市)」婦人画報、2019年1月4日