太田豊後守(おおたぶんごのかみ)は、天文23年(1554)から永禄4年(1561)頃の古文書に名前のみえる後北条氏の奉行で、松山衆の1人。
古河城落城のとき(天文23・1554)、足利晴氏から軍功に対し感状を受けている。永禄2年(1559)の『所領役帳』には、松山衆の1人で、前々から(小田原市)千代の上・下を所領とし、諸侍衆・諸色への触れ役や普請奉行を務めて、鎌倉市山崎あたりや、弘治元年(1555)に検見が行われた埼玉県比企郡内にも所領を与えられていることがみえる。また玉縄衆・御家中衆の『所領役帳』の編纂担当の奉行の筆頭に名前がみえる。永禄4年(1561)には上杉軍との合戦での戦功につき、北条氏政から感状を受けている。
『風土記稿』は、千代の円宗寺の開基・太田又三郎はその父などではないか、と推測している。また『所領役帳』補注は、松山衆の太田十郎兵衛はその一族と推測している。
経歴
足利晴氏の感状
年不詳(推定天文23・1554)11月5日付で、太田豊後守は、足利晴氏から感状を受けている(5)。
また年不詳11月13日付で、太田豊後守は、古河城が落城したとき、早々に駆け付けて奮戦したことについて、足利晴氏から感状を受けている(6)。
松山衆の1人
『所領役帳』に、松山衆のうちの1人として太田豊後守の名がみえ、
の所領があって、うち200貫文は前々からの知行、残り176貫022文は諸侍衆・諸色への触れ役(連絡係)と普請奉行を務めていることから、役を免除されていることがみえる(1)。
また乙卯年(弘治元年・1555)に検見が行われた
- 「吉見郡大串(比企郡吉見町大串)の内」に95貫文
- 「比企郡戸森(比企郡川島町戸森)」に31貫900文
の所領について、当年(『所領役帳』編纂の永禄2・1559年)改めて半役(63貫450文)を命じられている(1)。
知行役高辻は合わせて263貫450文、人数着到高辻は都合502貫922文(ただし蔵出50貫分は出銭から除く)(1)。
このほかに、寄子給として「上州高嶋郷(埼玉県深谷市高島)」に90貫文を下されている(1)。
『所領役帳』編纂
『所領役帳』の玉縄衆・御家中衆の末尾に、永禄2年(1559)2月12日付で、編纂を担当した奉行のうちの1人(筆頭)として太田豊後守の名がみえる(2)。
北条氏政の感状
永禄4年(1561)11月21日(実際は28日と推定)付で、太田豊後守は、北条氏政から、同月27日に越国衆(上杉軍)が武蔵国の生山(なまやま、埼玉県の児玉郡美里町~本庄市児玉町にある生野山)へ進軍してきたときの合戦で、利根川端まで敵軍を追詰め奮戦したとして、感状を受けている(4)。
年不詳文書
年不詳9月5日付の「禄寿応穏」印のある、高麗郡平沢(埼玉県入間郡日高町平沢付近)の百姓中あて文書(『武州文書』所収)の中で、後北条氏は、同日出陣したので、来たる7日に、前々と同じように、矢盾と馬1疋を用意し、河越城でも、野陣の場合でも、陣着した場所に7日に連れて来て、太田豊後代へ引き渡すように命じ、対処しなかった場合には、攻撃して村を滅ぼす、と脅迫している(7)。
家族
- 千代・円宗寺の開基・太田又三郎について、『風土記稿』は太田豊後守の父などではないか、と推測している(3)。
- 松山衆の『所領役帳』に、太田豊後守に続けて所領が記されている太田十郎兵衛について、『所領役帳』補注は、太田豊後守の一族と推測している(1)。
参考資料
- 佐脇栄智(校注)『小田原衆所領役帳』東京堂出版、1998、114-116頁
- 『小田原衆所領役帳』58,198頁
- 『風土記稿』成田庄 千代村 円宗寺
- 『岩槻市史 古代・中世史料編 I(2)古文書史料(下)』岩槻市市史編さん室、1983、103-104頁、No.379
- 『岩槻市史』709頁、No.1076
- 『岩槻市史』715頁、No.1085
- 『岩槻市史』656頁、No.1006