妙蓮寺本堂(歴代住職の墓より)妙蓮寺(みょうれんじ)、広昌山は、酒匂にある日蓮宗寺院。本尊は宗風の諸尊(1)(宗祖(日蓮)奠定の大曼荼羅・一塔両尊四師(2))。江戸時代には下総中山・法華経寺の末だった。(1)

沿革

開山は久遠成院(2)日親(長享2年・1488没。或いは長禄2年・1458没誤か)で、応永33年(1426)6月の創建(1)(2)。寺伝によると、日親が都へ弘道の際、酒匂川の出水に遭って在錫した霊跡(2)。開基は山崎氏の女性(法号:妙蓮信女。19世紀前半当時、村民に山崎氏は4軒あり、どの家の先祖か不明だった)(1)

慶長8年(1603)に領主の大久保相模守忠隣から1,120坪の土地の寄附を受けた(1)。その証状の写し(1)

定、立四十間、横二十五間、千坪、右新寺家進置候、但永荒地候間如此候、此外百二十坪を塔中場付置候、并彼於寺中大都之御用候共、竹木伐べからず候、次本寺家之所者、諸給方候間、如前々坪年貢於納所可被下候、為其一札進之候、仍如件、慶長八癸卯(1603)六月二十四日、酒匂妙蓮寺、大権右花押、天金右花押、田九郎左花押、伊惣右花押、
  • 『風土記稿』は、或る説に、酒匂堰が新たに疏鑿(開削)されたときに、当時の住僧が祈祷した効果があって事業が成功したため、この寺地を領主から寄附されたという、としている(1)。このことは『全国寺院名鑑』にもみえる(2)(がこれは下記の逸話と混同しているように思う)

大田南畝『一話一言』に、時代が下って田中丘隅大岡越前守忠相の命を受けて酒匂川の水防工事をすることになったとき、丘隅はごろた石を俵に入れた「弁慶土俵」を数多く作らせて酒匂側に堤防を築き、妙蓮寺に参詣して鎮守の鬼子母神へ工事の成功の祈願を頼み、金15両をお布施した。すると住持が僧侶を大勢引き連れて出て、土俵1俵ごとに法華経陀羅尼品を1巻ずつ読んで入れて俵を投入していった。1万の俵を投入すると、酒匂川の水が止まり、思った通りに堤が完成した。陀羅尼1万巻の経力によって成功したとして、この堤は法施堤とか陀羅尼堤と名付けられた。そこには丘隅の石碑が建てられ、丘隅はその功績によって直参に取立てられた、という逸話がある(2)

境内

1970年当時、境内は1,000坪(約57.5m四方)、建物は本堂30坪(約10m四方)、庫裡61坪(約14.2m四方)、山門(3)

三十番神堂

『風土記稿』のとき、境内に三十番神堂があった(1)

寺紋

寺紋は「丸に日蓮宗橘」/五三桐(2019年調査)

年中行事

1970年頃、毎月17日の開山命日に「お題目会」を開催(2)

リンク

参考資料

  1. 『風土記稿』
  2. 大田南畝「田中丘隅酒匂川の事」『蜀山人全集 巻4 増訂一話一言』吉川弘文館、1907・明治40、700-701頁
  3. 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.422