宝安寺(ほうあんじ)、定林山は、浜町1丁目にある曹洞宗の寺院。本尊は釈迦如来(1)。明応元年(1492)に僧・模庵宗範(明応5年・1496没)により創建された。開基は宝安香積居士(事蹟不詳)。中興は僧・仁臾隣宅(元和元年・1615没)。江戸時代には伊豆国加茂郡逆川村(静岡県賀茂郡河津町逆川)普門院(2)の末寺だった。(1)(3)
1970年当時、社会事業の寺として知られていた(3)。
沿革
明治5年(1872)の学制発布を受けて、1873年(明治6)8月に宝安寺に小学壱町田学校が開かれた(5)。
什宝
古文書
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天正14年(1586)7月の江湖会のとき、後北条氏が出した制札が、『風土記稿』のときにも残されていた(1)。その写し(1):
禁制、右当寺江湖之間、聴聞之貴賤、横合非分狼藉等、堅令停止了、若違犯之輩有之者、速可被遂披露旨、被仰出者也、天正十四年丙戌(1586)七月十三日、宝安寺、江雲(雪ヵ)奉之[虎朱印] -
また天正18年(1590)2月の法度書があり、文中に新地である由が記されている。このため、『風土記稿』は、この頃、当地に移転したのだろう、と推測している。(1)
法度、為新地之間、寺内并門前屋敷十五間(約27m)、諸役不可有之事、竹木草花不可剪取事、横合非分狼藉堅令停止事、右三ヶ条、至于違犯之輩者、可有披露、可処厳科旨、被仰出者也、仍如件、天正十八庚寅(1590)二月十日、宝安寺、宗悦奉之、
境内
1970年当時、境内は500坪(約40.7m四方)、建物は本堂55坪(約13.5m四方)、庫裡45坪(約12.2m四方)(3)。
太子堂
境内の太子堂は、延宝2年(1674)の建立で、太子像は像高9寸8分(約29.7cm)。運慶の作とされていた。(1)(3)
当時の住僧・大雲の記した縁起があった(1)。その写し(1):
新宿町(浜町4)小大工頭 遠藤小兵衛と云者、当宿に太子堂なきを患へ、延宝2年(1674)入生田紹太寺に詣し、鉄牛禅師に語りしに、幸ひ庫内に太子あり、師前夕の夢に、明日来詣の男子に与ふべしとの告あれば、則小兵衛に授与すとなり、小兵衛程なく当寺に堂を建、霊像を安ぜり、 |
稲荷社
『風土記稿』のとき、境内に稲荷社があった(3)。
辻村家累代の墓地
1994年当時、境内に辻村家累代の墓地があった(4)。
小田原診療所
1970年当時、小田原診療所を経営(3)。
小田原愛児園・乳児園
1970年当時、小田原愛児園を経営(3)。
2019年現在、境内に隣接して、小田原愛児園・小田原乳児園がある(2019年調査)。
寺紋
寺紋は五七桐。(2019年調査)
リンク
- 社会福祉法人 宝安寺社会事業部
- 小田原市公式チャンネル「Vol 35【2022年6月1日公開】 テーマ:現場訪問「社会福祉法人 宝安寺社会事業部」」YouTube、2022年6月1日
- 相模太夫「伊豆国加茂郡「譜門院」末の「定林山宝安寺」」『相模太夫の旅録=Tabi Log』2022年5月11日
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タウンニュース 小田原・箱根・湯河原・真鶴版
- 「「ともに過ごす」お茶の間 茶のまあるが2周年」2019年7月27日号
- 「あの手この手、まちへ還元 赤い羽根共同募金」2017年9月30日号
- 「児童発達の要所が開設 県西初の児童精神科も」2017年7月7日号
参考資料
- 『風土記稿』
- 『風土記稿』国立公文書館内閣文庫本 請求番号173-0190 第12冊 コマ77
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、p.421
- 松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994、9頁
- 高田稔「学制発布と小学校の誕生」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、10-11頁