宝金剛寺(ほうこんごうじ)、国府津山医王院は、国府津にある東寺真言宗の寺院。本尊は地蔵菩薩。江戸時代には近郷31ヵ寺の本山で、京都・東寺宝菩提院の末寺だった。(1)
歴史
開山
開山は杲隣(ごうりん、承和11年・844没)と伝わる(1)。
中興?開基
久安元年(1145)に僧・一海(治承3年・1179没)が中興したと伝えられている(1)。同寺には、鎌倉時代(1185-1333)前半の金銅仏の代表作とみなされている銅造 大日如来坐像をはじめとして、12世紀中頃から後半(平安後期から鎌倉初期)の作と推定されている仏像が多く残されており、寺伝の中興の時期と重なっているとの指摘がある(2)。
治承2年(1178)に小松内府・平重盛(1138-1179)が地蔵尊を崇敬して11貫200文の地産を寄進したといわれ(1)、その地は「蔵薬免」と呼ばれていた(6)。
戦国期
宝金剛寺には、後北条氏から受けた印判状5通が伝えられており(宝金剛寺文書)、弘治元年(1555)5月に後北条氏の評定衆・石巻下野守康保が国府津における寺社の修造に従事すべき番匠の事を指示するために送った文書中に「地青寺」とあるのが宝金剛寺のことで、弘治2年(1556)に後奈良天皇の勅命により現在の寺号に改めたとされている(1)。
永禄2年(1559)に足利晴氏が疾病に罹ったとき、北条氏康が国府津の護摩堂(宝金剛寺)に「百座の御祈」を行わせた(がしかし晴氏は翌年死去した)ことが『北条記』にみえる。(1)
同年(永禄2年・1559)の暮より、古河晴氏卿御悩の由聞えけるが、次第に重くならせ玉ふ。是氏康の御妹婿公なれば小田原国府津の護摩堂にて百座の御祈あり。然れども定業限りある御命にて明る永禄3年(1560)終に隠れさせ玉ふ。(六巻本『北条記』巻3(6)『北条史料集』102頁) |
また同書によると、元亀元年(1570)に氏康の病が重くなった時も「百座の祈念」を行った(がその甲斐なく氏康は同年死去した)。(1)
元亀元年秋の比より、氏康御病気にて様々療治有といへども、更にかひなく、日々に重らせ玉ふ。箱根山の別当(金剛王院)、国府津の護乗堂(宝金剛寺)、花本(木)の蓮乗院にて百座の祈念、其外方々の立願ありしかども、定業や来けん、元亀元年十月三日、御歳五十六にて逝去あり。(六巻本『北条記』巻4(9)『北条史料集』146-147頁) |
天正14年(1586)3月、板部岡江雪斎融成から寺内不入の制札を受け、また北条氏直から従前のとおり寺領11貫200文を所務するようにと下知を受けた。(1)
江戸初期
後北条氏滅亡後の天正19年(1591)11月、徳川家康から、従前のとおり、護摩堂領として22石を下賜された。元和3年(1617)に徳川秀忠が与えた書状でも、御朱印に続けて、旧例のとおり「護摩堂領」と記した上で、「宝金剛寺」の寺名が記されている。(1)
明治期
明治4年(1871)に寺領を奉還(6)。1875年(明治8)、従前の本堂を破却し、薬師堂を本堂とした(6)。
1898年(明治31)、宝金剛寺を仮用して中学校が設けられ、僧侶の徒弟を養成した(6)。
1908年(明治41)9月、国府津小学校の校舎の移転・改築に際し、児童の一部を受け入れた(翌年4月末まで)(7)。
1941年(昭和16)に本寺との本末関係を解消した(5)。
什宝
仏像
- 本尊の木造 地蔵菩薩立像は、台座の銘札に平重盛の建立とあり、「帯解(おびとけ)地蔵」と呼ばれていて、安産祈願の風習がある。同像とあわせて県の文化財になっていた銅造 如意輪観音菩薩坐像は、2002年に木造ではなく銅造であることが判明、平安時代の金銅仏は珍しいとして単体で県の文化財指定を受けた。
- 木造 薬師如来坐像は、寺伝に中興開基があったという12世紀中頃の作で、もとの護摩堂の本尊だった可能性が高いと考えられている。
- 銅造 大日如来坐像は鎌倉時代前半の製作と推定されている。
- 木造 不動明王及両童子立像は、胎内文書から延慶2年(1309)の造立であることがわかっている。
仏画・絵画
- 空海を含む真言宗の8人の祖師を描いた絹本着色 真言八祖像は、14世紀前半頃の作品とみられている。
- 主尊の大日如来と他の諸尊を描いた絹本著色 両界曼荼羅図は、室町時代初期の作品で、神奈川県内では最古の作例に属するとみられている。
- 絹本着色 不動明王像は、他にも作例が多いが、南北朝時代から室町時代の制作。
- 紙本着色 西洋童子像は、桃山時代から江戸時代初期に流行した初期洋風絵画の作品で、その後、キリスト教の布教が禁止されたことから、寺院に寄進され秘かに伝えられたとみられている。
- 庫裡の杉戸絵「松桜図」のほかに、それよりも古く、江戸時代に本堂で使用されていた引き戸に描かれた杉戸絵 唐獅子図など数点の杉戸絵が保存されている。
古文書
『風土記稿』が伝える後北条氏の印判状5通のほかに(1)、仏教界の師弟間で大法や秘法を伝授する際の「印信」など7点を含む、計12点が宝金剛寺文書として市の文化財に指定されている。
堂宇・境内
1970年当時、境内は934坪(約55.6m四方)、建物は本堂が46坪(約12.3m四方)、庫裡が63坪(約14.4m四方)(5)。
護摩堂
『風土記稿』によると、本尊は薬師如来で、脇立に日光菩薩・月光菩薩・愛染明王、多門(聞)天などが安置されていた。(1)
庫裡
棟札により寛政12年(1800)に建てられた宝金剛寺庫裏は、1958年(昭和33)・2003年(平成15)の改修工事を経て、2011年に国の有形文化財に登録されている。
鐘楼
『風土記稿』に、寛文3年(1663)に鋳造された鐘が掛けられていたことがみえるが(1)、この梵鐘は第2次世界大戦のとき、金属供出によって失われた(3)。現在の梵鐘は、戦後に再鋳造されたもの(3)。
稲荷神社
『風土記稿』によると、境内の稲荷神社には本地十一面観音が安置されていた(1)。
建武古碑
宝金剛寺の裏山の無縁墓地の一隅にあった建武古碑は、建武5年(1338)に造立された、当時の浄土教の信仰を示す板碑で、根府川石を利用した「相模型板碑」と呼ばれる意匠。
土砂災害特別警戒区域
宝金剛寺の境内の一部を含む国府津09-1の区域(206-H26-76 国府津09-1)は、神奈川県の土砂災害特別警戒区域(急傾斜)に(2021年3月19日 告示第150号)、八ツ沢の区域(41070 八ツ沢)は、神奈川県の土砂災害警戒区域(土石流)に(2013年8月30日 告示第478号)それぞれ指定されている(4)。
寺紋
末寺
江戸時代に宝金剛寺の末寺だった寺院には、早川の東善院・真福寺・正蔵寺、石橋の宝寿寺、米神の正寿院、飯田岡の福田寺、高田の円蔵院、酒匂の南蔵寺、国府津の安楽院、小船の源長寺、沼代の吉祥院・福泉寺、曽我原の東光院、田島の金蔵院、大井町西大井の真福寺があった。また飯泉観音の勝地院・弥勒院・宝寿院・大徳坊に供僧していた。(1)
リンク
参考資料
- 『風土記稿』
- 小田原市文化部文化財課「彫刻・宝金剛寺の薬師如来坐像」小田原市公式サイト、最終更新日 2013年5月31日
- 國府津山 寶金剛寺 境内・四季 境内
- 神奈川県土砂災害情報ポータル 区域図(206-H26-76 国府津09-1) 区域図(41070 八ツ沢)
- 全日本仏教会寺院名鑑刊行会『〈改定版〉全国寺院名鑑 北海道/東北・関東編』同左、1970年3月(初版1969年3月)、pp.418-419
- 国府津町誌編纂委員会「宝金剛寺」『国府津町誌』国府津町、1954、202-203頁
- 『国府津町誌』72頁