宝金剛寺文書(ほうこんごうじもんじょ)は、国府津の宝金剛寺が所蔵している古文書。『風土記稿』に、戦国期の後北条氏の印判状5点の写しを載せている(3)。1976年(昭和51)に市の有形文化財に指定された(2)。小田原市公式サイトによると、市指定文化財となっている文書は12点あり、後北条氏の文書のほかに、仏教界の師弟間で大法や秘法を伝授する際の「印信」などが含まれている(2)。宝金剛寺のウェブサイトに原文の画像が掲載されている(1)。
後北条氏の印判状
1. 弘治元年(1555)石巻某(康保)奉書
- 弘治元年(1555)5月に後北条氏の評定衆・石巻下野守康保が国府津における寺社の修造に従事すべき番匠の事を指示するために送った文書があり、文中に「地青寺」とあるのが宝金剛寺のことで、弘治2年(1556)に後奈良天皇の勅命により現在の寺号に改めたという(3)。
- その文書の写し(3):於国府津番匠可召仕事、八幡宮・天神宮修造之時、倩次第何成共可召仕事、地青寺・蓮台寺建立之時も、番匠之事、前々可為如御定事、大工之事者、八郎左衛門仁相定事、以上、右相定上、兎角申番匠有之者、急度可被申上由、被仰出状如件、天文廿四年(弘治元年・1555)五月廿八日、地青寺、石巻奉之、北条氏虎朱印、
2. 天正7年(1579)幸田某奉書
- 天正7年(1579)頃、後北条氏から、寺域にあった名木を小田原域内の庭園に移すよう命令を受けた(3)。
- その文書の写し(3):松木一本、梅木一本、以上二本、寺の傍に有之由に候、為御庭へ可被移、御所望候、於被進者、可為御祝着者也、仍如件、卯十二月朔日、国府津護摩堂、幸田奉、虎朱印、
3.天正14年(1586)板部岡融成奉書など3点
- 天正14年(1586)3月、板部岡江雪斎融成から寺内不入の制札を受け、また北条氏直から従前のとおり寺領11貫200文を所務するようにと下知を受けた(3)。
- その文書の写し1(3):掟、右当寺如前々諸役不可有之、猶自今以後樹木以下、横合狼藉堅令停止畢、若違犯之輩有之者、可有披露、糺明之上、可被処厳科旨被仰出者也、仍如件、丙戌(1586)三月七日、宝金剛寺、江雪奉之、虎朱印
- その文書の写し2(3):従前々被相拘国府津之内寺領之事、先御証文之筋目、猶以不可有相違者也、仍状如件、天正十四年丙戌(1586)三月十六日、宝金剛寺、氏直華押、
- 2に添えられた江雪斎の書簡(3):寺領之御判形申調進入候、御文言に、御内所務之員数、雖可被書載候、既先年之御検地帳にも、三年以前之御改之帳面にも、本途無異儀御拘、然に本途に付く内所務、今更改而被仰出不及候、本途御抱に候へば、それに付来御内徳に候間、如前々本増共十一貫二百文之所、永代御相違有間敷旨、被仰出候、為御心得一筆如件、猶以御寺領之事候間、如前々何事も諸役者不可有之候、百姓中へ其御断御尤候、以上、丙戌(1586)三月十六日、板部岡江雪華押、宝金剛院御同宿中、
徳川氏の朱印状
天正19年(1591)11月、徳川家康から(?)、従前からの取り決めのとおり、護摩堂領として22石を下賜された。元和3年(1617)に徳川秀忠が与えた書状でも、御朱印に続けて、旧例のとおり「護摩堂領」と記した上で、宝金剛寺の寺名が書かれている。(3)
参考資料
- 國府津山 寶金剛寺 本尊・寺宝 仏画・古文書
- 小田原市文化部文化財課「古文書・宝金剛寺文書」小田原市公式サイト、最終更新日 2013年5月31日
- 『風土記稿』