小田原城(おだわらじょう)は、かつて小田原に存在した、後北条氏の本拠地として知られた中世の城郭。土肥次郎実平の子、遠平が居館を構えたのが元だと言われている。最近の小田原城は、小田原市が管理している、近世の城郭を模した観光施設

小田原城

沿革

廃城

明治3年(1870)10月(1)ないし閏10月12日(3)小田原藩(藩知事・大久保忠良)は新政府の民政局へ小田原城の廃城を願い出(1)(3)、同月20日に民政局から取払いの許可が下りた(3)。同年11月10日、取り壊しの入札が行われ、高梨町(浜町)の質商・平井清八郎が、天守(石垣を除き、蝋燭石を含む)と多門櫓(同)、櫓(3ヶ所、同、柱石を含む)と解体撤去のいっさいを金900両で買い受けた(1)(3)。『明治小田原町誌』によると、このときの天守の屋上の鯱(雌雄1対)は銅製で高さ1間(約1.8m)、天正9年(1581)の銘があった(1)。平井はこの鯱を横浜まで馬車で運び、ドイツ人の貿易商に700両で売却した(2)。鯱はドイツへ送られたことが確からしいが、その後の行方は不明(1)

城が解体された直後から、池上村(扇町)の名主だった宮内太次兵衛ら有志が城地を借用して、田畑の開発・耕作を進めた(「旧城郭内開拓小作税請書」)(3)

明治5年(1872)頃には、城地と建物は陸軍省の所管となり、同省は二の丸に屯営地、三の丸に練兵場を配置する予定としていた(『陸軍省大日記』明治5年3月)(3)

陸軍省から用地を仮借した足柄県は、同年9-11月に城内の銅門・南門・厩曲輪門・中仕切・二階櫓・箱根口渡櫓・冠木門・二の丸裏門・住吉門・中仕切門・幸田門・米倉を売却して代金を陸軍省に引き渡し、旧小田原藩庁を庁舎として引続き利用した(3)

1873年(明治6)に小田原城郭は正式に陸軍省の所轄となった。1875年(明治8)9月に陸軍省は不要建物を競売に付し、用米蔵・番所2棟・供部屋等を幸町の桜井宗吾が落札した。(『小田原市史 別編 城郭』史料13)(3)

小田原城址

(1876・明治9年4月(4))足柄県が廃止され、神奈川県小田原支庁が設置されることになった際に、足柄県は旧庁舎を陸軍省に返却し、神奈川県は別途、三の丸の貫属地約3,705坪(約12,248m2)を買収して、官有第2種(官有地)に編入した(3)

編入の前後から、土地の有効利用を企図した小田原の有識者や商人によって、官有地払い下げ運動が行われるようになった(3)

1891年(明治21)12月までに、陸軍省から旧藩主大久保家に対し、旧城内の土地18町3反2畝(約181,686m2)が1万円で払い下げられた(3)小田原町は、その約66.7%にあたる12町2反2畝を5千円で買い上げ、残分(差引6町1反)を無償で借り受けた(3)

1893年(明治26)10月、旧本丸天守台に大久保神社創建(3)

1894年(明治27)、旧二の丸・小峰曲輪に報徳二宮神社の社殿創建(5)

1899年(明治32)-1900年(明治33)頃、御用邸新設のため、宮内省が旧城内の土地4町1反3畝18歩を(41,018m2)を小田原町から2万5千円で取得し、また6町9畝17歩(60,453m2)を大久保家と換地(3)。大久保神社は小峰(城山)へ移転した(3)

1901年(明治34)1月、御用邸落成(2)

1930年(昭和5)12月、御用邸廃止(2)

1933年(昭和8)、小田原城址公園として開放(2)(以後の沿革は別記事参照。)

参考資料

  1. 播摩晃一「小田原廃城」播摩晃一ほか編『図説 小田原・足柄の歴史 下巻』郷土出版社、1994、8-9頁
  2. 「年表」同書148-151頁
  3. 宮坂博邦「小田原城の解体と城跡地所管の変遷」『小田原市史 通史編 近現代』小田原市、2001、87-94頁、I 近代 第3章 第1節
  4. 綾部一雄「西北地区自治会の沿革 その1」富水西北史談会 編『富水西北の歴史 第2巻』富水西北公民館、1985・昭和60、57頁 - 内田哲夫 編『年表小田原の歴史』による。
  5. 神奈川県神社庁ウェブサイト>神社詳細>報徳二宮神社、更新時期不明、2023年2月21日閲覧

Pages tagged “小田原城”

Add new "小田原城"