小田原辻村総本家(おだわらつじむらそうほんけ)、辻村家(つじむらけ)

沿革

小田原への移住

小田原の辻村家は、もとは、足柄上郡下吉田島村(現開成町吉田島)の名主・(辻村)徳兵衛(2)の家から分かれた(1:14)。その後、曽比村へ移住(1:15)。更に小田原藩内の壱丁田(浜町1丁目)に移住し、質屋・呉服商を主な商いとして、事業を拡大していったとみられている(1:15)

初代は「甚八」、2代-4代は「甚八郎」、5代は「甚八」を名乗った(1:15)。屋号は「曽比屋」で「曽比甚」とも呼ばれ(1:18)、「舎やまきち」を屋印にしていた(1:15)

  • 小田原への移住の時期について、松浦1994:15頁は、浜町の宝安寺の墓碑銘によると、初代の父は宝暦14年(1764)、初代・甚八は文化10年(1813)に没しているため、その間の18世紀後半と推測している。
  • 他方で同書14-15頁は、同家は天保年間(1830-1844)に一時衰退したが、3代目・甚八郎(1882年・明治15没(1:17))が二宮尊徳仕法を用いて復興し(1:14)、その後、曽比村に出て難村の再建に尽力、更に小田原へ移住した、としており、この説によると、小田原への移住の時期は天保年間以降になる。

辻村家文書

『小田原市史』には、文政13年(1830)から慶応4年(1868)にかけての、辻村家所蔵の古文書(以下6点)が収載されており(1:9)、辻村家が小田原藩に度々多額の資金を提供(貸付)し、その功績によって名主格・町年寄・宿老などの職位を得、また苗字を名乗ることを許され、藩から扶持を与えられた経緯がわかる(1:16-17)

  1. 文政13年(1830)奉公人の規則「制詞条目」17ヶ条(1:16)
  2. 文久2年(1862)に「御金肝煎見習・御用聞荘助(3代・甚八郎と推定)」が小田原藩入部の際の出金の功により名主格に任ぜられた(1:16)
  3. 文久3年(1863)、小田原藩から、安政5年(1858)の出金による窮民救助の功により3代・辻村甚八郎に紋付上下が下付された。このとき既に、2代・甚八郎は苗字を許され、町年寄となっていた(1:16)
  4. 元治元年(1864)12月、3代・辻村甚八郎は、小田原藩から、非常備金差出その他の功により、孫一代苗字を許された。その功績については、文中に、亡父・甚八以来、数十年来、御金肝煎を勤め、その子・荘助も見習を勤めたこと、また非常備金として千両を5ヶ年間貸付けたことがみえる。これにより2人分の加扶持があり、5人扶持を生涯下された。(1:17)
  5. 慶応3年(1867)12月、出金の功により3代・辻村甚八郎は藩から宿老に任ぜられた。また別書面で辻村秩作(4代・甚八郎?)は永代扶持を給せられ、御用達に任じられた。(1:17)
  6. 慶応4年(1868)7月、辻村秩作は、小田原藩から、出金の功により御召の小袖を下附された。(1:17)

明治期

明治初期は、質屋の営業を継続し(1:18)、4代・辻村甚八郎と5代・辻村甚助は、1875年(明治8)5月に設立された積小社の発起人となった(1:18)。同社は1893年(明治26)の小田原銀行設立に発展し(1:18)、6代・辻村常助は1915年(大正4)当時、同行の取締役を務めていた(3)

この頃の辻村家は、伊豆・相模・山梨にわたる全国有数の山林家・大地主で、その財力を各方面に生かしていた(1:18)

明治中期以降は、金融業を廃業して、山林業・農園経営に切替え(1:18)、6代・常助は辻村農園の本格的な経営に取り組んだ(1:19,41)

関東大震災

1923年(大正12)の関東大震災で辻村家の浜町の家財は全焼し、経営に携わり、箱根湯本で辻村高山園を開園していた常助の弟・辻村伊助一家5人が土砂崩れで死去したこともあり、辻村農園の経営は中止を余儀なくされた(1:44)

墓所

辻村家の菩提寺は浜町の宝安寺(1:15)、同寺には辻村家累代の墓地があり、初代の両親から6代・常助までと、その家族の墓がある(1:16-17)

参考資料

  1. 松浦1994:松浦正郎「小田原が生んだ 辻村伊助と辻村農園」箱根博物会、1994
  2. 藤平初江「般若塔(pdf)」『広報かいせい』2012年12月1日号、12頁
  3. 辻村常助」人事興信所 編『人事興信録 4版』人事興信所、1915・大正4、つ31頁

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